『言葉だけが最後に残る』を読んだあと、紹介されていた本『地図と拳』『そこにすべてがあった バッファロー・クリーク洪水と集合的トラウマの社会学』を購入し、同時期に『Kentucky Route Zero』もプレイしたこととつながります。
過去の本質とは、「すでにないこと」である。一方、過去を思い出す活動は、過去と現在が何らかの形でつながっていないと、可能にはならない。よって想起は「すでにないが、今もある」という対立物(矛盾)の統一を基盤とした行為として、概念化されなければならない。バートレットの遺産を引き継ぎ、生態学的想起論は、歴史と不定性の「対立物の統一」(Mori, 2008, 2009; Valsiner, 2007)として、想起を概念化したいのだ。 『想起ー過去に接近する方法』51頁
おもしろいです。読んでいるとこれまでに触れたあれこれが頭にうかんで、ずっとわたしは想起のことを先に考えるべきだったと思えてくる。古井由吉の私小説についての文章も、これを読みながら思い返すと過去物語を創作することや「現在」と「過去」の区分は可能なのかという話題に接続するし、想起は言語によってなされるという話題から『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』の話題を思い出した。ずっと頭の片隅にあるのは先日プレイした『Kentucky Route Zero』だし、直近で『言葉だけが最後に残る』で紹介されていて読んだ『地図と拳』や『そこにすべてがあった バッファロー・クリーク洪水と集合的トラウマの社会学』のこともある。
ベン:ほら、幽霊って「そういうもの」なんじゃないか。起こらなかった出来事を記録すること。消えてしまった後も、新たな痕跡を残し続けること。そして、記憶を偽ることが。 『Kentucky Route Zero』
時間。すべての建築は特定の時間に帰属する。現代建築は現代に、古典建築は古典に。そして、その時間を無限に延長しようとする。モニュメントの語源は「思い出させる」ことにある。拳の記憶を、その時間を、永遠に保存し、呼び覚ますこと。 『地図と拳 下』304頁
「環境との接触が不十分になったときに、『現在』と呼ばれるような比較的短い持続の一部としてではなく、より長い持続の一部として環境が探され始める(佐々木、一九九六、五六頁)。」「『現在』と私たちが呼ぶ持続は『過去』まで拡張したより長い持続にいかようにでも入れ子化する。想起という探索はこのより長い持続のなかで『何か』を探す行為なのである。」(佐々木、一九九六、五六ー五七頁) 『想起ー過去に接近する方法』196頁
想起に関する話題、言われてみればそういう実感あるかもってなるので読んでいて楽しい。
想起において、自己(とその相補的存在である環境)は二重化する。「今-ここの自己(身体/環境)」の内部に入れ子となった形で、「現在の自己」と「過去の自己」が分化する。入れ子になった二重化された環境で、「今-ここの環境」に適応的な形で、「現在の自己」と「過去の自己」それぞれが有する予見性の差異を探査し、発見、特定することが想起である。 『想起ー過去に接近する方法』225頁
引用ばかりになってしまった。門外漢にもわかりやすいように一冊のうちに段階を踏んで生態学的に考える想起論のことについて説明をしてくれる本です。そういったものの、一方で一部には勢いがあって一歩引いてしまうところもあった。内容に関してだと、供述分析というものがあること、そしてそこから想起することについて掘り進めるところがおもしろかった。このあたりがもっと読みたかった部分でもあるかも。
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