『りすん 2025 edition』をみました。とてもよかったです。病室を舞台にほぼ兄妹(とたまにおばあさん)の会話のみでつくられた作品で、諏訪哲史の同名作品を原作に、天野天街が脚色したもの。
先に原作を読んでいたのでどうやって演劇にするんだろうな……って思ってました。小説から脱出することを志向するような小説を演劇に置き換えるという意味でもそうだし、それは細かい点で、例えば、原作小説もテンポのよい会話(及び作中ノート)のみで構成されているんですが、「……」「……」が繰り返される場面だったり、発話者が兄なのか妹なのか一瞬わからなくなるようなところがあるんですが、それを人間が実際に発声するとなるとどうするんだろうとか。
そのあたりを解決するのが、全編にわたって言葉の音を拾うようなリズムの良さ、テンポの良い登場人物たちの会話を、(状況説明の多い前半は特に)その頭とお尻を被せるように発話することで達成していて、いや、これって文字と発声で全然同じようなことをしているだけなんですが、わたしの頭の中に(そうでないアニメや映画の演出はあるのにそれでも)セリフはずらして発声するものだって未だに思っていたところがあったのでこうやって解決できるんだとなったりした。もちろんこれ単体だとただのそういうテクニックなんですがそれが何度も何度も繰り返される。そして作品の全体を通じて録音した音声と実際の発声、それに登場人物たちによる同時発声といった、声の出どころを撹拌するような演出がエンドレスに繰り広げられることで、目の前で生身の俳優さんが演じているっていう現実感が(演劇なのに)逆に喪失するようなことにつながっていた気がします。
似たようなことですが、短いセリフが繰り返される小説にあったある種の軽さに対して、演劇では生身の人間が、それも病床の登場人物を演じることで生まれる重さがどうしてもあって、演技としてはそのあたりを正面から受け止めるように重さもそのまま落とし込まれていたんですが、そのうえで場面の時間を巻き戻したり、やりとりを繰り返したりすることでその生身の重さ、現実感を削ぎ落としている感じがあった(そしてこれをこなす俳優さんはめちゃくちゃ大変だろうな……と思った)。あと加えるなら最後のやりとりの前に長尺で差し込まれたアニメのエンディングテーマみたいな兄妹の振り付けパートもそういったものの気がします。二人の踊りにあわせて、過去撮られた映像が同じ位置に投影して動きに重ねられていました。
じゃあこの演劇から現実感を喪失させるのが何なのかといわれると、それは原作関連作品である『アサッテの人』でも触れられていましたが、予定調和のなかにある裂け目をどれだけ意識できるか、マンネリにつながる日常の現実感から逸脱したところで作為から離れることができるのかというのが本作なんだよな。それはどうやってもできないことだけど、それでもなおそれを志向するというお話でした。何書いてるかわからなくなってきた。
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