『Kentucky Route Zero』をやっていた。ついにクリアしました。とてもよかった……。
自分のツイートによると2025年4月13日に購入、6月3日に起動、7月5日に第3章(中間くらい)クリア、そして本日8月11日に全編クリアらしい。プレイ感覚が空きすぎて、それまでの登場人物のことを忘れたりしちゃったところもあるけど、一気に読み切るには読書感が重いし、かといって平日の夜に手を付けるのも億劫で、休日に少しずつプレイする感じで2ヶ月。
全5幕と5つの幕間劇から構成されたテキストアドベンチャーゲームです。2013年2月23日に第1章がリリースされてから最終章である第5章が2020年1月にリリースされるまでに足掛け7年。そして、(後追いのわたしが言及するのもあれですが)当初実装されていた壊滅的な日本語訳にかわって有志(ashi_yuri氏)によってつくられた日本語改訳版が公式採用されたのが2023年8月。本作に触れるタイミングによっては体験が全然違った可能性があるので、いまちゃんとした状態でプレイできて本当によかった……。
本作は骨董品屋の最後の配達先として、どこかに存在するらしいドッグウッド通り5番地を探してガソリンスタンド、農場、空間再生局の官僚的なオフィスや、洞窟の奥、コンピュータを燃やす焚火の周りなどで様々な人々とすれ違い、あるいは同行し、片田舎のハイウェイを走り、地下空間で川を下りながら移動をし続けるお話。かつて鉱山で起こった水没事故の犠牲者、借金が嵩んで姿を消した人たち、住居を展示する博物館に暮らす人々、そして大雨による洪水に見舞われた町に残った人々などが登場します。
以下、ネタバレを含みます。

最初の印象はとにかく美術が良すぎることでした。これは最後の最後まで徹底されていて、寄る辺なさとそこにあることが同時に存在する画面、このビジュアルで一つの世界観ができています。そこに載ってくるテキストがまた良いんだよな。すでに何かが失われ、それでも今その上にあること。彷徨うように移動する主人公たちが先々で出会う人々。
ドナルド:そうだ。私は亡霊に取り憑かれている。その亡霊は『そこ』に閉じ込めてある。『ザナドゥ』の中に。この輝かしき埃まみれのマシンの中で走り回っているのさ。もし良かったら見せてあげよう。パイプの煙と思い出に浸る以外はすべて手遅れ、そう…今更遅すぎるんだ…
洞窟の奥、コンピュータの山
ブランドン:趣味は何か、って聞かれたら、「カードゲーム、サイエンス·フィクション、それと射影幾何学」と答えるかな。でも私はスライドショーを流し、テープを再生して、別にこれで給料をもらってるわけでもない。自分ではかなり真剣にやってるけど、誰かにそうしろと言われてるわけでもない。それは趣味なのかな?もう少し真面目な言葉があっても良さそうだけど。
かつて保管庫であった無人の教会で一人テープを再生し続ける

本作では幕間が挟まることで舞台や時系列が一瞬断裂します。気づけば演劇の中にいたり、目の前に置かれた電話をひたすら自動音声を聴き続ける回もある。知らない土地の観光案内をきいたり、眠れない理由を聞かれたり、手元にいるヘビがぐんにゃりしたりする。作品に存在するある種のうら寂しさを包み込むこういう(一貫性のある)突拍子のなさやナイスなやりとりの数々も魅力なんだよな。
このテキストには膨大な選択肢が設定されています。そこではそのやりとりにおける感情やリアクションだけじゃなくて、それがどうであったかといった事実についても選択ができてしまう。これを全編にわたって繰り返すことで、気づけばストーリーへの没入感というだけではないプレイヤーからの寄りかかり方というか、プレイヤー自身が(出来事だけではなく、これまで暮らしてきた人々の思いを含めた)記録のなかにいるような、そういう感覚がありました。
過去の痕跡や記録の中から、この場所で何が行ったのかを知ること、これはまずテキストを読むプレイヤーにとってそうであるのと同時に、当然、それを目に(耳に)する登場人物たちにとってもそうであるんだよな。根こぎにされた人々が、根を持つこと。
コンウェイ:これを見るのは…つまり…あんたには…
シャノン:いいの。ここにこの碑があって良かった。何が起こったのか、人々は覚えておくべきだから。
コンウェイ:ああ、そうだな、記憶だ。俺はここに初めて来るまで知らなかったが、今は憶えている…いい碑だな、そう思うよ。
ベン:さあな。
ベン:たまに、録音すること「そのもの」が幽霊じゃないかと思うよ。
ベン:ほら、幽霊って「そういうもの」なんじゃないか。起こらなかった出来事を記録すること。消えてしまった後も、新たな痕跡を残し続けること。そして、記憶を偽ることが。

そしてその選択の結果にたどり着く、直前の大雨で洪水に遭った町。これまでの旅路で出会った人との再会。わずかに残った人と幽霊、そして”隣人”と呼ばれる洪水で亡くなった馬。悲劇的な状況である。それでもこれまで延々と夜、あるいは地下を移動し続けたあとに見る太陽の下の町はどこか空気の通りが良くて、クライマックスの人々が集まる場面には少しの光があります。
ニッキ:ここに留まるのなら、あなたは墓所の上に次を築くことになる。でも、それはどこであっても同じ。世界はすべて、墓の上に築かれている。
最終章、ActⅤのアチーブメントの名前が本当によかった。足下にいるということ、馬を埋める、それを知っていること。とても良いアメリカのゲームでした(翻訳、ありがたすぎる!)。

余談ですが、本作には枝葉の部分で地衣類が登場します。そして以前読んだ本『地衣類、ミニマルな抵抗』は美術作品や詩作に登場する地衣類を取り上げて地衣類のその遍在、共生する姿を描いたものですが、『Kentucky Route Zero』もこの本に紹介される作品群に連なるものだった気がします。

余談その2ですが、このホーマー(犬)のジャケットが好きすぎるのでポスターほしいなって思っているものの、インターネット上には見当たらなくてかなしい。(絶対ありそうなのに!)めちゃくちゃ良い。
余談その3ですが、1972年、鉱山のダムが大雨で決壊したことで洪水に見舞われた地域の被災者に関するフィールドワークについて書かれた本、『そこにすべてがあった バッファロー・クリーク洪水と集合的トラウマの社会学』を読んでいると、やはりインタビューからの引用が多く収録されているんですが、例えば本書のなかにでてくる”隣人”ということばに関する記載を読んで、この作品のなかにも「隣人」と呼ばれた馬たちがいたことを思い出した。そして(作中、信仰に関する話題が登場することもあり)それが聖書の含みをもっていたことに今更気づいたりした。
被災者が「漂流している」「居場所がない」「根こぎにされた」「迷子だ」と感じていると証言するとき、それはつまり、自分たちがどこにも所属していないような気がするということであり、自分たちの立ち位置を時空間上に固定してくれていたいつもの社会的目印が見つからない、ということである。被災者は確かに抑うつ状態にある。ただしそれは、自分たちがどこでもない空白地帯に無意味に宙ぶらりんにされているという感情から来ている。
このあたりを読んで第五章を思い出さないわけにはいかないよな……って今検索をしていたところ、『Kentucky Route Zero』のマップのなかに「Buffalo Creek RECC」が存在しているらしいとの情報がインターネットにあった。
確認したら本当にあった。初回プレイ時にはぜんぜん気づかなかった(というかバッファロー・クリーク自体知らなかったが)。海外の掲示板だといくつか両者について触れてたりもするのでやっぱり連想するような出来事なんだろうなとは思います。それよりもこうやって過去の出来事を埋め込むことっていうのは作品のなかで取り扱われていた記録、記憶に関する話題と結びついた手法であって、『Kentucky Route Zero』の思想みたいなものを感じます。
コメントを残す