笑いのカイブツ

『笑いのカイブツ』をみた。

何をするにも不器用。人間関係も不得意なツチヤタカユキの生きがいは、「レジェンド」になるためにテレビの大喜利番組にネタを投稿すること。5秒に1本。狂ったように毎日ネタを考え続けて6年。その実力が認められ、念願叶ってお笑い劇場の作家見習いになる。しかし、笑いだけを追求し、他者と交わらずに常識から逸脱した行動をとり続けるツチヤは周囲から理解されず、志半ばで劇場を去ることになる。自暴自棄になりながらも笑いを諦め切れずに、ラジオ番組にネタを投稿する“ハガキ職人”として再起をかけると、次第に注目を集め、尊敬する芸人・西寺から声が掛かる。ツチヤは構成作家を目指し、意を決して大阪から上京するが─。 公式サイト

ラジオも、お笑い(特に今作のモデルである芸人さんのラジオの話題はよくタイムラインに流れていた)も、わたしはこれまであまり触れてこなかった部分で、タイムラインのその方面に明るい方々がこの映画をみてどんな感じかな~って何となく様子をみていた。というか、まあわたしがみて感想を残すものでもないだろうなって思っていたんですが、金曜日から限界まで気が滅入っており、もともと今日みるつもりだった『アンドレイ・ルブリョフ』『フリーク・オーランド』があまりにも重そうで、今日みられる気もしなかったので気づいたらこの映画を予約していました。

わたしは気が滅入っていても電車に乗れるだけの元気が残っていれば映画にはでられる。部屋で過ごす無の、無のとはいえその間あらゆることが頭に浮かんで嫌な気持ちになる2時間を過ごすよりも、真っ暗な映画館にいたほうが絶対に良いので。

映画の冒頭の重低音からちょっと違和感があって、もっと静かに進めていく作品かと思ったらかなりギアを踏み込んだ演出だった。主人公の「選択肢が存在しない生活」というか、自分でそれらを選択肢から外してしまったあらゆることが、社会として乗りかかってきて溺れて苦しんでいる姿はすごく良い画面で、ただ音楽がちょっと過剰だったなって気がした。わたしは苦しいときって無音か、あるいは全く関係ない音楽の無限リピートだと思っているところがある。

でも主人公の髪の毛が場面によって伸びていたり切られていたりするんですが、この髪型の変化って映画やファッションとしてみたときになにか意味があるほどの大きな変化ではない(ロングがショートになってなにかを意味するような断髪ではない)、あるいは社会人としての一般的な身だしなみとしてみるとありふれたものである範囲なんですよね。でもそれすら何とか主人公が世間に踏み込んで、社会に相対しようとしているんだよなっていうのが伝わってくる気がしてよかった。あらすじにある「常識から逸脱した行為」はまあそうなんですけど、挨拶をちゃんとするようになったり、差し入れをしている他者のマネをしようとしたり、そういう一歩一歩の場面が本当に一瞬ずつだけ挟まれていた。演技が強くてフラットにみると多分何か怖いな……ってなりそうなところをぎりぎりのところで本人の意思の発露に変換していた気がする。

だからこそ「俺は“正しい世界”で生きたいねん!」のところは刺さってしまった。というか改めてこのフレーズめちゃくちゃ良くないかですか。今読んでてちょっとまた涙でそうになってる。本人にとっても、周りの人間からみても主人公が社会にむいていないことは明らかなんだよな。この場面で主人公のそばにいる菅田将暉がめちゃくちゃよかった、かっこよすぎる。

最後、主人公が作家として提供した漫才のネタが「断崖絶壁で犯人に自首を促す場面」っていうのもお話がうまいぜ。お笑いを扱っている映画なのにこの作品のなかで笑える意味で面白い場面ってほとんどないんですが、この漫才はちょっとおもしろくて、漫才をする舞台の芸人2人に少しずつカメラが寄りながら、観客席にいる主人公が自分のつくった「自首を促す」会話を聞かされる場面。それを聞いてもお笑いの世界に戻れなかった主人公。

帰ってきた大阪の自室の、頭をぶつけすぎて穴の空いて血のつた壁をぶち破ったときに、その先にぜんぜん普通の他人の生活が見えたときに「しょうもな」って出たのは良し悪しがある。この作品で「しょうもない」ってフレーズはほとんど出てこなくて、これは意図しているのかお笑いの世界を描くときにそういう引いたいわゆる冷笑的な言葉ってタブーなのかわからないんですが、最後の最後にそれを言ってまたネタを書き始めるところはね、わたしはすきです。

わたしは毎日部屋でひとりで「たすけて」って言うし、(しょうもな)って思ったりもする、部屋で。映画が面白かったかと言われるとなんとも言いにくいし、多分原作の小説で読んだほうが良かった気さえもするんですがそれでもみてよかった気がします。社会と向き合えないラインって一つじゃなくて、人それぞれにたくさんのものがあると思うし、例えばサブスクは認められない人も、わたしがこうやって書いているしゃらくさいnoteも、あるいはその他諸々あるとおもうんですが、やっぱり他人と関わるのが絶望的に苦手っていうのはとても、言葉にしにくいですが良くない、という気はする。こういう中途半端な感じでやっている労働で限界になっているのでどうしようもないですね。終わり。

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