『日々はひとつの響き: ヴァルザー=クレー詩画集』(柿沼 万里江 (編集), ローベルト ヴァルザー(原著), パウル クレー(原著), 若林 恵 (翻訳), 松鵜 功記 (翻訳) )を読み終わりました。ローベルト・ヴァルザーの詩にパウル・クレーの絵が見開きで並べられた本です。小さな(、そういう表現の多いという意味でもある)詩とパウル・クレーの絵が並ぶと絵本のような雰囲気も出てきてます。
ローベルト・ヴァルザーはタンナー兄弟姉妹を読んでいてこれが大好きなんですが、小説以外に詩も書き続けていてそうで、そこから抜粋されたのが本作です。ゼーバルトによる「これほど陰に取り巻かれながら、それでいて頁という頁にこの上なく朗らかな光を投げひろげていた作家」という表現が端的にあらわしていますが、放浪しながら、散歩をしながら、それでいて日常の中にありながら、地に足の付かない文章、これが大好きなんですよね。これはタンナー兄弟姉妹に出てくる長広舌、おしゃべりな長文でも発揮されていて、本作の詩にもそのように長いものもありましたが、大部分は小品が並んでいます。
ランプはまだ ある、
テーブルもまだ ある、
そしてぼくはまだ 部屋の中、
ぼくの憧れは、ああ、
まだため息する いつものように。臆病よ、おまえはまだ いる?
そして、偽りよ、まだおまえも?
暗澹たる声がする「いるよ」
不幸もまだ いる、
そしてぼくはまだ 部屋の中
いつものように。「いつものように」15頁
この初期の詩を読んだときは陰気さを感じたんですが、後年の作品まで読んで戻ってくるとこのため息の底にある好奇心みたいな、光明みたいなものがあるような気がしてきます。それは横に添えられているパウル・クレーの「窓辺の素描家」、これも同じく初期の作品ですが、これが暗い部屋で窓辺から入る逆光のなかに座る、おそらく自画像で、そのせいかもしれない。
それはそれとしてヴァルザーとクレーの作品を並べることのそのあれはよくわからないところはまああり、ありますが……。本書のあとがきにそのあたりの組み合わせの経緯が載っています。言ってみればすべてのタイミングというか、すべてはつながっている案件だったんだろうなという感じでそれは大切なことなので、それがそのまま本になっていることはとても良いことだと思います。
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