我来たり、我見たり、我勝利せり

起業家として億万長者に成り上がり、幸福で充実した人生を送るマイナート家。一家の長であるアモンは、家族思いで趣味の狩りに情熱を注いでいる。ただ、アモンが狩るのは動物ではない。莫大な富を抱えた一家は“何”だって狩ることが許されるのだ。アモンは“狩り”と称し、何カ月も無差別に人を撃ち殺し続けている。“上級国民”である彼を止められるものはもはや何もない。一方、娘のパウラはそんな父親の傍若無人な姿を目の当たりにしながら、“上級国民”としてのふるまいを着実に身につけている。ある日、ついにパウラは父親と“狩り”に行きたいと言い出す。公式サイト

『我来たり、我見たり、我勝利せり』をみました。権力のある男による連続銃殺事件の映画、というよりも、男とその周辺の出来事をのぞきみているような作品。モノローグをつとめる娘の言葉によれば家族を何より大切にする無邪気な父であり、たしかに家族に接するシーンの人間味あふれる雰囲気がそのままそれ以外の場面にも溢れているような人物像で、そういった公私のあいまいな状態で人付き合いが描かれています。

男とその家族は敵対心を持つ人物や出来事に対しても直接司法機関等に便宜を図るようなことはせず(むしろ「もちろん、釈放しますよ」という耳打ちに対して「もちろんとは?」と釘を刺す姿勢も見せる)、家族のバースデーパーティに招いて娘に家を案内させたり、一緒に山に登りながら「誰も私をとめてくれない!」と相手を鼓舞するような物言いをしたり、果ては法務大臣の家まで連れて行って自身を告発させたりと、度を超えた距離感で接することで気づけば相手を取り込んでいるみたいなところがある。

この映画をみながら感じるのぞきみているような感覚は、こういった被害者や周辺人物の屈辱や挫折、葛藤、あるいは何かそういったものをほとんど描かず、次に登場したときには笑顔で主人公に向かって拍手をしていたりするところから来ている気がします。”狩り”の場面で繰り返される”画面外からの銃声”→”突然倒れる人間”っていう距離感、因果関係のレベルで作品内の責任が描かれている。だから言われるほど不快な気持ちになる映画というわけではなくて、どちらかというと『CURE』寄りの不穏さ、不合理さを社会批判に直接つなげた感じ。

個人的な気持ちとしてはストーリーの紹介文や予告編に近年インターネットで使われる(やや強い意味のある)単語を入れているのが好みではないな……と思いました。

あともう一つ余計な記録を日記に加えると、タイトルの略称がVVVだったのをみて、ぜんぜん関係ない『革命機ヴァルヴレイヴ』のことを思い出した(これいま言うこと?)。

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