アブラハム渓谷

フローベール「ボヴァリー夫人」をアグスティーナ・ベッサ=ルイスが翻案し、原作を執筆。言葉、映像、そして音楽それぞれが自律しながら精妙かつ鮮烈に調和する「文芸映画」の最高峰。男性的な世界/権力に詩的な想像力で抵抗する、主人公エマの苦悩。ディレクターズ・カット版とも言える、本来の姿でスクリーンに蘇るオリヴェイラ映画の記念碑的作品。公式サイト

『アブラハム渓谷』をみました。とてもよかった……。先立って今回の特集上映でみた『訪問、あるいは 記憶、そして告白』における姿のみえないセリフも書いていたアグスティーナ・ベッサ=ルイスが『ボヴァリー夫人』を翻案した小説版『アブラハム渓谷』を、オリヴェイラ監督が脚本に翻案したものです。『ボヴァリー夫人』の筋になぞらえるように一人の女性(エマ)の放縦な生活が描かれるんですが、主人公であるエマ自身に「わたしはボヴァリー夫人ではない」と言わせているとおり作品そのものに自覚的な目線がある。箱入り娘として育てられたエマの社会とのつながりを求める気持ちと諦観であって、豪奢な暮らしへの憧れとは別のものなんだよな。

美しいシーンがあまりにも連続するので200分の上映時間もあっという間だった。特に主人公エマの成長した姿を演じているレオノール・シルヴェイラの表情とその出で立ち(衣装や帽子等)が圧倒的で、作中に登場する、「幼少期のエマがベランダに立つと美しさのあまり目の前の道路で交通事故が発生するので市長からクレームが入る」っていうめちゃめちゃなエピソードもさもありなんといった感じがある(そうか?)。上映後にエマが猫を抱えているキービジュアルのポスターを買いました。

そのエマが月のうつくしさにも例えられることもあるのか、作中に流れる音楽にベートーヴェンの「月光」、ドビュッシーの「月の光」が登場して、気付いたときに月光縛りだ!ってちょっとふふっとなったんですが、エンドロールをみるとシューマン「月の夜」、フォーレ「月の光」も流れていたらしいです。

それで、その「月光」の流れる夜のシーンなんですけど、パーティで会ったオゾリオの葉巻の匂いをエマが嗅ぐシーンに流れているんですが、ここが本当にめちゃめちゃよいです。めちゃめちゃよいので、「月光」を一番良い感じに使っている作品の最新版は『陰の実力者になりたくて!』なんだよな~ってへらへらした感想が吹っ飛びました。

 

(2025年6月1日追記)

『アブラハム渓谷』の感想を書いたあと、以前に読んだ『声の映画史』に、同作の編集に携わったヴァレリー・ロワズルーのインタビューと対談が載っていたことを思い出して読み返した。作中でカメラが2回揺れる(猫、桟橋)ところについてのほか、わたしが昨日みた際にも特によかったと思った場面について触れている箇所がありました。

素晴らしい思い出があります。『アブラハム渓谷』のあるシーンなのですが、エマが月夜に寝間着で葉巻を吸うシーンが四つのカットで構成されています。長いシーンです。私の編集のときの最高の思い出がそのシーンにあります。そのシーンでは一回だけ切って、やり直しを一度もしませんでした。編集台にリールをかけて、そして音楽をかけました。シーンの頭に印を付けて、シンクロを取り、音楽を流しました。オリヴェイラが編集台の前に座り、そばにいてこのシーンを見ていたわけですが、映画などでもそんな場面がありますが、私は目の前の映像を見ながら横目でオリヴェイラの反応を見ていました。ショットの終わりだと私が思ったところで、オリヴェイラも終わりの動作をしました。オリヴェイラがそこで終わりでいいと感じているのを横目で感じることができたのです。まるで催眠術にかかっているような、魅惑されるような瞬間でした。ベートーヴェンの「月光」が流されていました。
カットが正しいのだということ。カット自体に意味があるのであって、それはショットの内側にある。そのことを彼が私に正しく指摘をしてくださったことは、とても大切な思い出です。『声の映画史』309~310頁

古今東西の名作に触れ続ける大学生みたいな時期がいま私にきている。

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