アルゼンチンの片田舎トレンケ・ラウケンで、ひとりの植物学者の女性ラウラが姿を消す。取り残された二人の男たち―恋人のラファエル、同僚のエセキエル―は、彼女を追って町や平原をさまよう。彼女はなぜいなくなったのか。この土地には何が眠っているのか。映画が進むにつれ物語は予想のつかない多方向へひろがり、謎はさらなる謎を呼び、秘密は秘密として輝きはじめる―。公式サイト
2部構成の全12章。章ごとに視点や時間軸が代わりながらアルゼンチンにある小さな町、トレンケ・ラウケンで起きた出来事を描きます。めちゃくちゃおもしろい映画だった……。
1部は大きく2つのパートからなっていて、ラウラとその同僚チーチョによるカルメン・スーナを探すパートがひとつ。図書館の本から見つかった数十年前の手紙から、カルメンがどういった人物でその文通相手であるパウロとの間にどういった出来事が起こったのかを推理していく二人の姿が描かれます。ラウラとチーチョによる推理調査の楽しそうな関係の描き方が良い。そして、その後失踪したラウラを探す恋人ラファエルとチーチョを中心としたパートがもうひとつ。曇り空ばかりの道中のどこか情けないおじさん二人のやりとりが映されます。
休憩を挟んだ第2部は、第1部にも出ていたチーチョとラジオ局のフリアナによって、失踪したラウラによって吹き込まれていたラジオ局の音声を再生していくのが主な内容です。ここにおいて街で話題となっていた出来事『謎の生き物が街の湖(※”トランケ・ラウケン”(丸い湖の意))で発見された事件』、そして街の外れに暮らす医者エリサへと移ります。
この第二部がまた良いんだよな。新たな謎が続々と出てきて、一瞬、視点がぐっと街全体に広がるのかと思いきや、街外れに暮らす2人の女性の生活とそのコミュニティに属したいと思うラウラの視点に収束していきます。
ミステリの要素は薄れつつもSFとも言い切れない、いくつも謎が登場しながらその確信には近づかず、しかし全てがつながっているような気もしてくる。出来事の因果関係や時系列はかなりていねいに示してくれるのでわからないことだらけな感じはあまりなくて、むしろわかることがいくつもあるのに、それを繋げてぐるぐる回っていても絶対に結論や核心には到達できないみたいな、そういうぽっかりと空いた穴が空いている印象が残る。そしてそれが心地よくもある。これは第1部のラウラを探して車でぐるぐると迷走する場面とも、カルメン・スーナの痕跡をたどるカルメンの姿、そして荒野を放浪するラウラのイメージとも重なります。大きな謎があってもその周りでつながっている。
第1部の推理の中でパオロの姿をチーチョが演じる一方で、カルメンの姿を演じるのはラウラではない監督自身が演じていることについてはパンフレットに書かれていてなるほど~となった部分があります。
幻想のパオロはチーチョと同じピエリによって演じられ、2人の男の間には完全な同一化が行われている。それに対してラウラ(引注:監督の名前もラウラ)が行うのは、カルメンと自らを、それぞれ「ひとり」であるまま、なおかつ「私たち」として想像することはなかろうか。『トレンケ・ラウケン』パンフレット9頁
劇中で、ある本に『新版の出版にあたった著者が、自らの功績について述べる箇所の表記を”私”から”私たち”に修正することを求めた』旨の脚注がつけてあり、それをみたラウラと、過去にこの本を読んだカルメンが同じ箇所に惹かれて書き込みをする場面が描かれていました。
この映画において何度も描かれる”失踪”ですが、その失踪さえも誰かとの関係が生まれることによって失踪として捉えられるということなのかも、つまりひとりでありながら共同体に属するということはどういうことか、という映画とも言えるかもしれない。この映画のタイトル『トレンケ・ラウケン』は実際いアルゼンチンに存在する地名らしい。
パンフレットでは6年かけてこの映画を製作した「エル・パンペロ・シネ」という組織についても紹介されています。ここで監督は「製作会社」というより友人たちが集まった組織としながら、以下のようにインタビューで説明しています。
映画と生活を両立させるには、たくさんの方法や条件があります。でも、一番大切なのは決めることです。どうやって生きていくか、何を犠牲にするか、どこを譲るか。映画と私生活を融合させる生き方を決断できるかどうかです。パンペロのメンバーは全員、映画以外の仕事で生計を立てています。(中略)
家族全員を巻き込んで6年間同じ映画づくりをするということは、決して簡単なことではない。それをやりたいと思う人は限られているでしょう。なぜなら、私たちの世界の経済は、そういうふうに生きることを許さないからです。私たちのような映画を受け入れないからです。映画業界というのは私たちのような映画とは無縁のたくさんの大きな映画によって成立しています。その陰で、私たちは他の仕事をしなければ映画を撮ることはできない。パンペロのような共同的なやり方は法的にも一般的にもなかなか受け入れられないし、既存のシステムが拒絶するものです。そうしたシステムに抗う必要があるのは、世界のどこでも、日本でも同じでしょう。『トレンケ・ラウケン』パンフレット19~20頁
映画自体も面白かったんですが、今回知った「エル・パンデロ・シネ」についての話を読めたのもうれしいパンフレットだった。おすすめです。
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