トレンケ・ラウケン

アルゼンチンの片田舎トレンケ・ラウケンで、ひとりの植物学者の女性ラウラが姿を消す。取り残された二人の男たち―恋人のラファエル、同僚のエセキエル―は、彼女を追って町や平原をさまよう。彼女はなぜいなくなったのか。この土地には何が眠っているのか。映画が進むにつれ物語は予想のつかない多方向へひろがり、謎はさらなる謎を呼び、秘密は秘密として輝きはじめる―。公式サイト

『トレンケ・ラウケン』(上映はPart1, Part2の分割)をみました。とてもおもしろかった……。2部構成の全12章。章ごとに視点や時間軸が代わりながら、アルゼンチンにある小さな町、トレンケ・ラウケンで起きた出来事を描きます。第1部は姿を消したラウラと、そのラウラを探す恋人と同僚を中心としたパート。と同時に、ラウラと同僚チーチョによるカルメン・スーナを探すパートでもある。つまり、図書館の本から見つかった数十年前の手紙のやり取りからカルメンがどういった人物で、その文通相手であるパウロとの間にどういった出来事が起こったのかを推理していく二人のパートと、その後、失踪したラウラを探すパート。

推理の中ではパオロの姿をチーチョが演じる一方で、カルメンの姿を演じるのはラウラではない(監督自身が演じている)。これについてはパンフレットに書かれていてなるほど~となった部分なんですが、作中、ある本のなかで、新版の出版にあたった著者が自らの功績について述べる箇所の表記を”わたし”から”私たち”に修正することを求めていたという脚注がつけてあり、それに対してラウラと、過去にこの本をよんだカルメンが同じ箇所に惹かれて書き込みをしていたことが描かれています。そのことをひいて、

幻想のパオロはチーチョと同じピエリによって演じられ、2人の男の間には完全な同一化が行われている。それに対してラウラが行うのは、カルメンと自らを、それぞれ「ひとり」であるまま、なおかつ「私たち」として想像することはなかろうか。『トレンケ・ラウケン』パンフレット9頁

としています。この映画において何度も描かれる”失踪”ですが、あるいはその失踪さえも、誰かとの関係が生まれることによって失踪として捉えられるということ。ひとりでありながら共同体に属するということ、という部分にここからもつながるんだってなりました(助かる)。

今は第1部におけるラウラとチーチョの推理パートについて触れたんですが、ほかに例えば第1部におけるもう一人の登場人物であるラファエルとチーチョの曇り空ばかりの道中のやりとりも良いし、ラウラとチーチョによる、お互い別の生活(恋人や子ども)がいるなかでの仕事や調査における楽しそうな関係の描き方も良い。書こうと思えばあらゆる細部が良い。1部が終わって休憩に入ったところでこんな面白いのってあるんだってくらいの気持ちになっていました。

休憩を挟んだ第2部では、その姿を消したラウラが、姿を消す直前までの出来事を自身の口で放送番組を持っていたラジオ局の音声に吹き込んだ記録を第1部にも出ていたチーチョとラジオ局のフリアナが再生していくのが主な内容です。ここにおいて第1部のカルメンは影を潜め、舞台は深夜のラジオ局へ。話題は街の外れに暮らす医者エリサと、街で話題となっていた出来事、謎の生き物が街の湖(トランケ・ラウケン、(丸い湖の意))で発見された事件に移ります。

この第二部がまためちゃくちゃ良いんだよな。視点がぐっと街全体に広がるのかと思いきや、街外れに暮らす2人の女性の生活と、そのコミュニティに属したいと思うラウラの視点に収束していく。そこに事件、水中呼吸をして湖に暮らしていたとされる生き物(行方不明の孤児、猿、ワニではないかとの噂)報道が流れる。この坊やと呼ばれる生き物がどうやら2人の女性と深く関わりがあることが示される。ミステリの要素は薄れつつもSFとも言い切れない、謎がいくつも登場しながらその確信には近づかず、とはいえ全てがつながっているような気もしてきます。実際、多くの謎が登場するものの、出来事の因果関係や時系列はかなりていねいに示してくれるので、わからないことだらけな感じはあまりなくて、むしろわかることがいくつもあるのに、それを繋げてぐるぐる回っていても結論であるや核心である謎の部分には絶対に到達できないみたいな、そういうぽっかりと空いた穴がいくつもある印象です。その基底部には第1部のカルメンの姿もあって、荒野を放浪するラウラのイメージが重なる。めちゃくちゃおもしろい映画だった……。

この映画の製作は「エル・パンデロ・シネ」となっていて、この組織によって6年間をかけてこの映画はつくられていますが、その組織についてもパンフレット内で紹介されています。監督は「製作会社」というより友人たちが集まった組織としながら、以下のようにインタビューで説明しています。

「映画的」である必要はなくて、別の規律があるはずです。わたしたちの映画づくりはロックバンドのそれと同じようなものです。友達が集って、詩を書いて、録音して、というふうに、自由に作品ができあがっていく。私はそれが一番自然で、あるべき姿だと思います。それは、監督やプロデューサーが映画を所有することによって失われてしまう、皆で参加する制作、製作のあり方です。同じようなシステムを持っているブエノスアイレスのインディペンデント演劇からも私達たちは強い影響を受けてきました。
(中略)
映画と生活を両立させるには、たくさんの方法や条件があります。でも、一番大切なのは決めることです。どうやって生きていくか、何を犠牲にするか、どこを譲るか。映画と私生活を融合させる生き方を決断できるかどうかです。パンペロのメンバーは全員、映画以外の仕事で生計を立てています。(中略)
家族全員を巻き込んで6年間同じ映画づくりをするということは、決して簡単なことではない。それをやりたいと思う人は限られているでしょう。なぜなら、私たちの世界の経済は、そういうふうに生きることを許さないからです。私たちのような映画を受け入れないからです。映画業界というのは私たちのような映画とは無縁のたくさんの大きな映画によって成立しています。その陰で、私たちは他の仕事をしなければ映画を撮ることはできない。パンペロのような共同的なやり方は法的にも一般的にもなかなか受け入れられないし、既存のシステムが拒絶するものです。そうしたシステムに抗う必要があるのは、世界のどこでも、日本でも同じでしょう。『トレンケ・ラウケン』パンフレット19~20頁

映画自体も面白かったんですが、今回知った「エル・パンデロ・シネ」についての話を読めたのがうれしいパンフレットだった。おすすめです。

先日遅ればせながらにプレイをはじめて、そのまま忙しくて止まっている『Kentucky Route Zero』を早く再開しようと思った。

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