『東京物語考』(古井由吉)を読み始めました。タイトルから映画『東京物語』に関しての本なのかな~と漠然と思っていたんですが、そして実際に書き出しはそれなんですが、内容としては明治・大正・昭和の私小説、徳田秋声、葛西善蔵、嘉村磯多などの著作の内容をもとに東京に居着くことに関するあれこれをまとめたものになっています。めちゃくちゃおもしろい。まだ半分ほどですが、現在(80年代)の東京の土地を場合によっては実際に歩き、あるいは地図で確認をしながら、取り上げた作品の一節をもとに東京と生活者の関係を読み取っていく内容で、わたしはそういう行為が好きなのでいいなとなるところもあり、あります。
何かの特集で、文筆家の選ぶ古井由吉作品選のなかでこの『東京物語考』を何人もの人が挙げていたことを思い出しました。古井自身、いくつかの対談やインタビューで、私小説について、あるいは先に上げた徳田秋声、葛西善蔵等々の作品について触れていたことが多く、それらが古井作品のエッセイズムとどう関わるかっていうのがかなり肝なところではあると思うので、今思えばその特集で『東京物語考』が多く載せられていたのも納得な気持ちです。
読み終えた中だと「楽しき独学」「生きられない」「何という不思議な」あたりが好きです。葛西善蔵の諧謔味として”実に變な奴だねえ、さうぢや無い?”という自己客観の認識を挙げながら、私小説とされる作品に挿入される作り事(作品中で死産とした数日後に実際は子供が生まれている、ということを別の作品で明かす)に触れて、これを虚言、自己客観の欠落ととらない見方を書いています。
自己客観というものが、他人に対して自己を見定めるもの、人と人との間で生きるためのものとすれば、これは単なる恣意勝手、ひいては現実喪失に類するものだと言えるだろう。しかしこれらの拒絶は、「私」への追求をある段階までで断念して自我の枠を他人との関係の中で守ったところで成立するものであり、もしも「私」に限りなく容赦なく添うとすれば、人の間にある存在としての自我が解体しかかる境に至りつくことはあるはずだ。自己客観というものも過激になれば、自他の関係としての現実をおそらく解体しかかる。これは自己耽溺などという言葉が想わせるような猥雑なものよりは、もっと冷酷でけわしいものに違いない。私小説がきわまれば、現実と虚構とは取り替えのきくものとなる。是非はともかく、そういう運命は考えるべきである。 『東京物語考』(古井由吉)96頁
私小説も、書くこと自体にどれだけ客観をとっても恣意は入らざるを得ないという話から日記のようなものを考えてエッセイを書いているというような話があったことを思い出しました。
(追記)
読み進めている『東京物語考』(古井由吉)は嘉村磯多の話をしている「幼少の砌の」まできました。嘉村磯多は先立って『業苦/崖の下』を読んでいるんですが、内容があまりに自意識のねじれというか、自己嫌悪やそれに基づく人間関係の拗れが直接的というか暴力的で……というところがあって、私小説で書きぶりもあまりに真に迫っているけど本当にこんなように書けるのか……と圧倒された覚えがあります。そういえば昨日の日記に書いた町田康の『私の文学史』のなかで随筆について”絶対におもしろい文章を書く”方法として”本当のこと”を書くということを挙げていて、要は社会とか世間とかに対する自意識みたいなことを意識するなという話なんですが、嘉村磯多の作品はそれにしてもというほどに強烈な作品でした。
このあたりについて、古井由吉が本作で触れています。
これほどに書き表わせるということは、書き表わされた存在とはもともと同じではない、あるいはそれをすでに克服した、存在のしるしであるのか。それとも、書き表わすという行為は、その存在がどうにか克服された結果でもなければまた、存在をいささか変えるものでもないのか。読むものはここで私小説の基本の問題に行きあたる。また、自己客観と自己克服とはあんがいに、たがいに関わりのないものなのか、客観はむしろ耽溺と、ときに鳥と卵との関係になるのではないか、とそう問えば事は小説の埒を越えてひろがる。客観を、慚愧の念とか罪業感の痛みとかに置き換えてみれば、さらにつらくなる。『東京物語考』(古井由吉)162頁
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