書かれた顔

虚構と現実をないまぜにした幻想的な作品を得意とするシュミットは、女形という特異な存在を通して、ジェンダー、生と死、そしてフィクションとドキュメンタリーの境界線上に、虚構としての日本の伝統的女性像を浮かびあがらせる。
「鷺娘」「大蛇」「積恋雪関扉」を演じる玉三郎の美しい舞台映像はもちろんのこと、撮影後ほどなくしてこの世を去った杉村、武原の語りや、大野の荘厳な舞踏など、彼らの“最後の姿”は今や貴重な記録となった。
撮影はゴダール、ロメール、オリヴェイラらの作品も手掛けてきた名手レナート・ベルタ。盟友シュミットと生み出した夢幻の映像美は、今なお多くの作家に刺激を与え続けている。また本作に挿入されるフィクションパート「黄昏芸者情話(トワイライト・ゲイシャ・ストーリー)」では青山真治が助監督を務めた。公式サイト

『書かれた顔』をみました。ダニエル・シュミット監督作。坂東玉三郎の化粧の場面、それに舞台映像やインタビュー、さらにセリフのないフィクションパート等が織り交ぜられた内容です。それぞれが一見ぶつ切りに、例えば舞台の途中に来るまで移動する場面が挟まれたりするんですが、それがかえって、直前までみていた所作や雰囲気を次の場面にも意識させるようになっていて、タイトル通り「書かれた顔」の役者として、その目を通じてみることというのを想起させます。

昨日『国宝』を映画館でみたときに喜久雄(吉沢亮)がビルの屋上で一人踊る場面があって、そこで同じくダニエル・シュミットが監督した『KAZUO OHNO』を思い出したところがある。これは愛知芸術文化センター企画「オリジナル映像作品」 の第4弾でライブラリにいけばみることができるものです。それをまたどこかでみなおさなきゃとおもっていたんですが、『書かれた顔』の中にそのまま取り込まれて登場したきたときはうおっとなりました。

まずここでものをつまむような大野の手の動き、その奥で鳥がその手に招かれたようにロープの上に降り立ちます。しばらくして、大野が肩をクッと前に入れる。このタイミングで、後方で鳥が飛び立ちます。ここは望遠で撮られており、実際は見た目以上に大野と鳥の間は離れていると思われるので、このごくわずかな動きで驚かせて飛ばせた、ということとも事態は異なるでしょう。圧巻はここです。この手をよく見てください。迎え入れるような手。その人差し指と親指の間に鳥が……来た! この瞬間にカットは変わります。『他なる映画と 1』(濱口竜介)93~94頁

この場面をみたかった。みれます。大野一雄の動きと鳥の「呼応」、それにおそらく編集中に気づいたダニエル・シュミットがここで編集点を切ることで観客にも同じようにその「呼応」の感覚が、ひいてはカメラと被写体の関係がそのまま観客と画面の関係に転化するものではないかという記述の部分です。この部分を読む数年前にわたしが一度ライブラリでみたときは、身体の動きをじっとみていると何か後ろの鳥がちょうど良い感じに羽ばたく瞬間あるな・・・くらいにみてて、カットが変わる瞬間やその意図について多分ぜんぜん気づいてなかった気がする(ぼんくら視聴だ)。

あとこれは蛇足なんですけど『書かれた顔』のなかで子どもがゲームボーイを触っている場面があって、プレイ中のカービィの「グリーングリーンズ」が流れてくる。ダニエル・シュミットの映画に「グリーングリーンズ」が流れることあるんだってちょっとふふっとなりました。

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