海辺の一日

『海辺の一日』をみた。エドワード・ヤン監督の長編デビュー作です。ここ数年、一作ずつ再上映やレストア版の公開が続いていましたが、最後に残っていたこれがついにみれます(『恐怖分子』は数年前に商店街の映画館でやっていてそこでみました。ただそれも今回改めて上映されるらしい)。映画館も混んでいた。

13年ぶりに再会する佳莉と蔚青。二人のやりとりから全編にわたって回想が続き、父権的な押し付けによる佳莉の兄 佳森と蔚青の別れや、それから逃れた佳莉の駆け落ち、その後の夫婦関係の破綻、そして警察から海辺に呼び出されたある晴れた日のことが語られます。

この過去と現在を行きつ戻りつしていた流れが、海の日の話になったあたりから回想のなかの回想、そして回想のなかで別の主体の回想が織り込まれることで重なり合っていく。カットのつなぎでも直前の回想、あるいは直後の回想の音がずり上げ/下げが何度も行われていて、現在の二人に戻ってきたと思ったときにも感覚的には回想との線引が曖昧で、極めつけはラストに蔚青のモノローグが入ることでこの二人のやりとり自体も”現在”ではなかったことがわかる。そういう入れ子構造のなかで、それぞれが各々、行き詰まりながら過ごした台湾の一時代が描かれています。面白いかというのとは別に、作中ではそれぞれ個人を描いていているのに映画が終わるとある時代の台湾そのものをみた感覚になるのはエドワード・ヤン監督作品だった感じがある。

佳森、佳莉の兄妹が父を「父さん」と呼ぶこと、そして父がそれぞれを「モリ」「カーリー」と呼ぶことについて特段の説明はなく、作中の年代は明示されていないものの先日読んだ『バイリンガリズムな夢と憂鬱』に出てくる言語環境に強いられたバイリンガル性の話題を思い出した。

あと蛇足ですが場面のつなぎでいうと、煙草に火をつけてもらう仕草で時代が切り替わったのが1回あって、そんな力技ありなんだとちょっとふふっとなった。

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