『糸あやつり人形芝居「高丘親王航海記」』をみた。昨日、古本屋さんのおじいさんから紹介された劇です。4年前の再上演。そのときにもおすすめされて、原作(澁澤龍彦)を読んでいなかったのでその本を買ったんでした。何と今回の再上演まで4年もあったのに、原作を積み続けていました……。その間に漫画版も出ています。そして、人形劇、めちゃくちゃおもしろかった……。
ここから先の感想は、作品自体への感想と、初めてみた人形劇そのものへの感想が混じっている気がします。冒頭からすごかったから。あと演劇のホールがこんなに暗いの忘れてた。映画館は思うと明るいんだな。本当に暗いというだけで楽しい、楽しくないですか?
開場のときから舞台の上になにかの塊が置かれているなと思いながらぼんやりみていました。開演して、「ミーコー!!」の声が響く。舞台の上から糸が何本も降りてきて、その塊に繋がり(どういう仕組?)、少しずつ高丘親王が呼び声に答えるようにぴくっと動く。冒頭から糸自体を意識させるものでした。
最初はやまとことばを話せずに通訳を介していた秋丸もすぐに日本語を話す。登場時に「ジュ~ゴン!」って鳴いていたジュゴンもすぐに日本語を話す。お餅を食べて、船のヘリから内側に向かってうんちをするジュゴンにたいして、「こっち向いてするんかい!」っていうツッコミが安展から入る。その通りで、舞台の外(奥)を向いて何事もすることはできないことにセルフつっこみが行われるんだよな。
口元が動かないからこその、二重のセリフ。登場人物同士が同時に掛け合うだけではなくて、同じ声がエコーのように重なり合って話をする。終盤になってはじめて「あなた口が動いていないですが……」「あなたもですよ」って会話が入る。
南海諸島で出会ったオオアリクイに対して、この8世紀、まだコロンブスが大陸で発見し連れ帰っていない時代、ここにオオアリクイは存在しない!!という安展の指摘に対して、「わたしはここにいる!!」と宣言するオオアリクイなんだよな。メタ的なツッコミを作品自体がしておきながら、それ自体に反発する展開と、その上でそれすら夢の出来事に収束してしまう物語の主軸。目が覚めてオオアリクイに出会う前の時間に戻った親王は、出会うことをやめる。
この親王が天竺を目指すために旅を続けるお話です。何のために天竺にいくのか、道中何度か尋ねられます。旅の中で「わたしはこういう不思議なものを、ただみたかったのだ」と気づくとともに、じゃあ天竺は?となる。密人の登場。
密人のパートがさ~めちゃくちゃすごかった。チェンソーマンのサンタクロースみたいな、身体のパーツをツギハギしたようなものが動き回る。そのうちに糸をあやつる手だけが舞台を上下にさまよい、人形劇には存在しないはずの横糸が舞台に登場する。気づけば手さえなくなり、画面には糸だけが残る。プロジェクションマッピングのような投影と、完全に物体として幾何学的な動きをする糸。
一瞬の暗転で舞台が切り替わる。背景の変更だけならまだしも、舞台上の人物もサッと変わる。吊られた人形だからか、無音でこれをやれるのが強すぎる。暗転が最初に行われたとき、ちゃんと見てたのに(何がおきた!?)ってなったからね。
演出で言うと舞台に立つ親王と合わせ鏡になるようにもう一人の親王が登場して、宙を足場に歩いてくる場面もウオオ!となった。これも人形劇でしか出来ない演出すぎる。
密人と出会い、高野山で入定した空海と再開する。ここで親王はこの先の道中に死すことが宣言される。それでもなお、じゃあこの旅の目的は? この死をわかったうえで、その往生を求めつづけることっていわゆる「往生伝」では?
終盤になり、パタリアパタタ姫から虎の話を聞く。この世界と天竺を走り回るという虎に食べられるのはどうか。虎が、舞台を走り回る。
終。
「終」の文字が解けて、舞台に残った文字が「糸」になる。迦陵頻伽が舞台から客席に向かって第三の方向に飛びたつ。

とてもおもしろかったです。
上演後には舞台挨拶がありました。舞台背景の切り替えは、初演時はほとんどぜんぶ間違えてしまっていたこと。今回、客席に向かって飛び立った迦陵頻伽はだいたい10列目あたりまできて羽ばたきつつ浮遊していたんですが、本当は客席の奥まで飛んでいくはずだったこと。
その他おもしろエピソードのほか、いくつかのギミックが紹介される。犬人の手が頭を支えて首を外す仕掛けは手が糸の引かれる上方向ではなく横方向に動くんですが、そのために糸を頭からひとつ手まで繋げておくことで、引くだけで実現できること、そういうひとつひとつの思いついた仕組みをどんどん取り込んでいくことで、舞台が出来上がることを話されていました。
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