(濱口竜介)他なる映画と 1

年末の特集上映がはじまるまでに1、2巻ともに読み終わる予定だったんですが、結局同時進行で別の本を読んでいたので1巻しか間に合わなかった。内容はめちゃくちゃ良いです。わたしは映画の技法解説ってぜんぜん読んだことなかったんですけど、この本はかなりその目的や意図、あるいは(意図とは別の)効果について言及してくれていて、それが特に監督の『偶然』というタームに関連して展開されているのですごく掴みやすい。というかこの解説を読むことでこの本では特に触れられていないはずの監督作の理解が少し深まる感じもある。

その日その時その場所で、たまたまそうなった。テキストが演者のポテンシャルを開いてしまった。もしくは、演者がテキストのポテンシャルを。偶然。それをカメラやマイクが捉えた。だからこそそれを「かけがえのない偶然」として我々は見ている、ということです。(略)つまり、そこで起きていることは、基本的には互いに弱め合うはずのフィクション(テキスト)とドキュメンタリー(現実のからだ)の、ほとんどありえないような一致・両立なのです。だからこそそれは、現実がフィクションを破壊せんとしてもたらす数多のハプニングやノイズとは異なる、「正確な」(と呼びたくなる)偶然として感じられるのです。(略)
テキストという準備があることがむしろ、然るべき偶然(の連鎖)の条件となります。テキストがあるから同じことを繰り返せる、同じことを繰り返せる中で、役者の安心と集中状態が同時に作られていく。この時にのみ起こる偶然があるのです。『他なる映画と 1』190~191頁

にもかかわらず、役者がカメラの最良のパートナーである所以は、彼ら・彼女らが「繰り返し」てくれる存在だからです。ただ、役者は演出家のために繰り返しているわけではない、ということは決して忘れてはならない。自分自身にとって真に重要な何かを見出すために彼・彼女は繰り返しカメラの前に立ってくれているに過ぎません。その破綻を避けるためにも、NOを互いに言い合える役者と演出家の素直な関係がまずは必要になります。そのうえで、両者は「どうやったら共にYESといえるのか」と問うことになります。この演出家としての問いは、明らかにそのまま他者と生きる上での問いでもあります。「私が私のまま、あなたがあなたのまま、どうやったら一緒にいられるのか」。逆説的ですが、そのために「私とあなたは、どうやって共に変わっていけるのか」。この問いは、どう人を愛するかという問いと非常に良く似ているように私には思われます。『他なる映画と 1』220頁

本を読んだあとに監督作である『ハッピーアワー』をみました。『他なる映画と 1』(濱口竜介)のなかでこの映画について触れている箇所が(何箇所も)あったので一つ記録に残しておきます。映画の演出についての部分です。カサヴェテスの発言の孫引きになります。

誰でも演技できると本当に思っているよ。どれだけうまく演技できるかは演技者がどれほど自由か、自分の感じることを表に出せるような環境があるかどうかにかかっている。ぼくの演出に対した秘訣があるとは思わない。自分の好きな人たち、興味のある人たちを起用して、俳優としてのではなく人間としての彼らに話すだけだ。(『ジョン・カサヴェテスは語る、二一九頁』)

この言葉は私自身、特に『ハッピーアワー』という映画をつくっているときに胸に抱いている言葉でした。演技とは単なるテクニックではなく、その人がそれまで生きてきたことの表現にほかならず、だからこそ誰でも演技ができると、わたしもまた考えています。と言うか、その考え自体をカサヴェテスの映画と彼の発言から受け取った、と言っていいでしょう。ただ、その実現は用意ではない。『他なる映画と 1』、211~212頁

このあと本の中では、カサヴェテスの『ハズバンズ』の歌のコンテストの場面における物語の構造と演出手法が悪い方向に結びついた可能性、暴力的な環境について話を展開しています。そして、その演出上の問題に関する一つの解決の糸口が「聞く」ことだとしている。思い返すとこれがそのまま『ハッピーアワー』のなかで絵が書かれる人間関係の問題、特に破綻した(あるいはしかけている)夫婦関係の描かれ方につながっていた気がする。そういえばこの作品の仮題は先の『ハズバンズ』(夫たち)に対応するような、『ブライズ』(花嫁たち)としていたというのはパンフレットにありました。

2024年12月23日

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