(千種 創一)砂丘律

歌集を読むのはいつぶりだろう。これまで集中して触れる機会がなくて、読み方のリズムと言うか、ひとつの歌にどれだけの時間ふれるべきかの感覚が、今でも自分の中で定まらない。前に詩は朗読すると良いよって聞いてお風呂場で黄金詩篇を読んだことがある。それに町田康の『そこ、溝あんで』の朗読がすごく好きなのもある。今日はお店なので声は出せないけど、黙読をするように読む。そういえばわたしは普段、言葉を雰囲気で読みすぎている。

労働のときにも指摘されたことがある。そんな言葉ないんじゃない?って今年に入って2回くらい言われて、そういえばどこで聞いたり、知った言葉かわからないけど文字の組み合わせだけで自分にだけ意味が通じるような単語を使っていたことがある。せっかく歌集を読むならいつもよりちゃんと文字と音を読むようにしなきゃと思う。

わたしが覚えている短歌は、仙波龍英の

ひら仮名は凄じきかなはははははははははははは母死んだ 『路地裏の花屋』

がどうしてもやっぱり頭に残っているのと、あとはいつだったか、タイムラインの方たちが短歌についての配信をしていたことがあって、そのなかで登場した「洋服の青山で叱られたのか?」みたいな歌です。どちらもそんなのありなんだって思ったから覚えているのかもしれない。

先日読んだ『いつかたこぶねになる日』(小津夜景)の冒頭にあった文章を思い出す。

いったい詩のどこをいいと思ったのかというと、なんといってもその短さです。短いおかげで忙しくても自分のペースでつきあえるし、暗唱だってできる。そしていったん暗唱してしまえば、料理をしていようと、シャワーをあびていようと、車窓をながめていようと、本を売ってしまおうといっこうに困らない。 『いつかたこぶねになる日』 3頁

ここを読んで、本当にそうだよな~と単純に頷いていたんですが、そうだよな、あらためて、こういう詩や歌、文章を積極的に暗唱することっていわゆる学校を卒業してから機会がなくなった気がする。わたしが受けていた大学の授業ではなぜか中国語の文章を暗記して朗読する講義があって、それが最後かもしれない。あとは先の仙波龍英の歌はそのパワーで頭に残っているんですが、好きな曲の歌詞もちゃんと覚えているのか怪しい。曲を聞かないと思い出せないと思う。

そういうこともあって、わたしはこの本を普段よりも文字に、音に触れて読もうと思いました。そもそも歌集ってそういうものですよ、と言われるとそのとおりです……となってしまうね(雑魚)。

ここまで読んだ序盤で気になったのは一首はこちらです。

数枚の硬貨を切符に換えにゆくまだ町は冷水魚の気配 『砂丘律』18頁

硬貨っていう概念がもうわたしの中になくて、それは別に電子マネーしか使っていないわけでもないけど、電車に乗るときはもう交通系ICカードだし、それは紙幣でしかチャージできないから硬貨を使うことってもうないんだよな。それ以上に硬貨のこと小銭って頭の中で認識しているということもある。財布に入った小銭を”硬貨”という言葉で捉えたことがないような気がする。どうだろう、金額のイメージがつかない外国のお金や、あるいは小さい頃、紙幣よりも硬貨を多く使って買い物をしていた頃は硬貨って認識していたかもしれない。そういう、日常の一部だけど少しずれた単語のイメージがある。それを切符に換えに行くこと。硬貨を切符に換えるというのも同じで、金銭取引を売買というよりも交換で捉えることが私の頭にはもう普段なくて、そのひとつのやりとりを丁寧に言葉にするとこの歌の前段になるのかもしれない。

そこからつながる冷水魚。これは初めてしった単語です。冷水で生活をする渓流魚(ニジマスや鮎等)を指す言葉みたい。冷水魚の気配。冷水魚の三文字で一つの単語なんだな。

わたしが最初に単語を知らずに読んだときのリズムは、「まだ町は冷水/魚の気配」で、冷水(れいすい)、魚(魚)の気配で読んでいました。出かける前の、まずは駅に切符を換えにいく冷ややかな朝。シンとした凍る手前の澄んだ朝。そこにいる魚の気配というのは、本当にささやかな、気づくか気づかないようなくらいかすかだけど、それでも確実になにかが少しちらついたような、そういう瞬間の音がする。

 

(2/12追記)

『砂丘律』(千種創一)を読み終わった。

赤レンガの配水塔に触れながら淡い懺悔を何度でもする 『砂丘律』36頁

車窓から出す手の先にある煙草、君にけむりの速さをみせる 『砂丘律』39頁

蝋燭が吹かれた一瞬、聖堂の形に闇がふっと固まる 『砂丘律』174頁

読んでいて特に気になったのはこのあたりの歌です。全体に、日本を舞台に、主体ともう一人の他者がいるような世界と、一転して中東を舞台にした現地の風景をひとつひとつ記録したような世界があった。上の歌でいうと前の2つと、3つ目がそれぞれにあたる気がします。

ただこうやって並べてみると、例えば赤レンガの配水塔という言葉自体は中東では存在しなさそう(配水塔のイメージがない)んですが、その古びた、昔からある建造物を一人で定期的に訪れては、ちょっとしたことも含めた懺悔を何度も繰り返すことは、そのまま中東の3つ目の歌、電気の通っていない聖堂のなかの祈りの一瞬を捉えたところと繋がりがあるようにも感じる。

砂の、赤の、(血の、)イメージを言葉の端々に感じる歌がつづく部分は、(わたしの触れてこなかった知識不足ですが)こういう歌集もあるんだって思った。砂に囲まれ、戦禍があり、そういう場所で暮らして、短歌を読むということがなにか、わたしのイメージする短歌や言葉の世界と、中東の暮らしを読んでいるうちにひと繋ぎのものにしている、気がする。良かったです。そういえば朝みた夢がイラクらしい砂の場所だったのもこの本を寝る前に読んでいた影響かもしれない。

2024年2月11日

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