(古井由吉 他)小説家の帰還 古井由吉対談集

対談集ということもあって気軽に手に取ったけどこれまでに読んだ諸々の文章で触れられていた内容が改めて相手に対応する形でいくつも語られていて、とてもよかったな。「私」という人称に含まれてくる死者について、あるいは現在を完全過去でとらえることについて、これまでも語られていたけどあまりピンときていなかったところあるんですが、今回噛み砕いているところを読んでいて何となく、すこしだけ言いたいことが見えてきた気がする。

例えば小説に厚みを加えるには、どこで誰が何をしたとか、何を考えたとか、そういうこともさることながら、その時に空はどうだったか、どんな風が吹いていたとか、どんな音が立ったとか……つまり小説に厚みを与えるのに一番いいのはお天気のことです。だけど、お天気のことを本当に現在今のこととしてとらえようとしたら表現は果てしなくなるわけですよね。雨と一言でも言えないし、晴れと一言でも言えない。まして小春日和とか、それから寒の入りの珍しくあったかい日なんて、これは全部、じつは完全過去なんですよ。大勢の人間たちのみてきた過去なんです。これをわたし、「生前の目」って言うんですけどね(笑)。生きながらの生前。この完全過去、死者たちの民主主義ですか……無数の死者たちの生前の目、あるいは無数の死者たちのことを思うときに生者も分かち持つ生前の目、これが小説の現在だと思うんです。それできちんと振る舞えるかどうかの問題です。振る舞えれば苦労はないんです。
現在を完全過去の精神でとらえないときに現在とは何かという問いが露呈してしまうわけです。そのときに言語は解体せざるを得ないんです。しかし解体のぞろっぺも嫌でしょう。どこでその解体そのものをつかめるかと考える。そのときに、現在を完全過去の精神でとらえていく私小説が僕にはいちばん面白かった。なるほどすぐれた私小説というのは、現在を完全過去の目で見るという限定の中で、非常に安定した深みのある表現を作り出して、それが魅力ではあるんだけど、だんだん年をかけて読んでいくと、破綻の部分が一番魅力がある。「私」と「言語」の間で 153~154頁

いややっぱり何が言いたいのかわたしにはわからない。ここで触れられている私小説はよく話題に出る葛西善蔵や嘉村礒多だと思うんですが、どうしても思い浮かぶのは「眉雨」の雲に関する異常な描写で、あそこも誰の視点なのか主語のないままどんどん滑り落ちていくような書き方がされていました。

2024年12月8日

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