(古井由吉)楽天記

『楽天記』(古井由吉)を読みはじめて、今1/4ほどです。冒頭の5頁がすごい。家に戻ると息子が帰っていた。日の傾き始めたなか、部屋でこちらを振り返る息子からの「小春日和だねえ」という投げかけに対して簡単なやりとりをしながら、その息子はどうも穏やかな様子で遠くを見ている。妻や子はどうしたのか。そういったやりとりの中で、急に、息子から長々しい言葉が出てくる。この引用した文章がすごいといいたいのではなくて、この文章をねじ込んで、それを楔に話を進めていくことがすごい(?)という感じです。このセリフ自体は直後に父親(主人公)に何を言っているんだと言われるわけですが。

「何もかも遠のいた。失せていく手応えに、懸命に追っつけるほどに、狂っていった。狂うことによって、追っつけていった。それでもあの頃は、窮地にあっても、人には信頼された時期だった。そこを乗っこして、正直、草臥れはてた。病院にも通ってみた。まわりの者を得心させるために入院も繰り返したが、じつはもう狂う気力も、必要もなくなっていた。困りはてて、ある時、自分はもう死んだようなものなので、とつぶやいた。ただそう言ってみたまでのことだ。そうしたら、声が返ってきた。まわりこそ、人も世も、お前に対してとうに死んでいるのだ、と。これもただ、勝手にそう思ったまでのこと、死んだというのが不穏当なら、たがいに無効になった、とそれぐらいでいい。たがいに閑散、でもいい。とにかく、それきり静かになった。風景がすっきりと目に映ってきた。物の音も懐かしく聞こえる。人心地がついた」

『楽天記』9~10頁

この直後に、このやりとりは夢で見たものであること、そして実際には主人公に息子はもとよりおらず、自身は50を越したところなのにその夢の中の息子は40にかかる頃になっていた。と続いて、なんとそこからまた夢の中の息子の描写に戻って改めて数ページ続くんですよね。

ここまで読んだ感じだとこの登場人物すべてに古井由吉自身というか、というより他の作品にも出てくるイメージが分散していて、誰が誰ということでもないような気になってくる。この後、心臓を悪くしつつも通常に暮らしている友人と高齢となったその父親の、それでいて二人だけの何か通じ合った生活や、編集者がもってくる平安時代等の古い疫病の話題、そういうものが静音なように描かれていて古井由吉の本の中でも中期以降のものと言った感じですがそれが連作で読めるのがすごくうれしい、良いなとなっています。

 

(追記)

『楽天記』(古井由吉)を読み終わりました。季節のめぐりに合わせてかかれた主人公の身辺の雑記、といってしまえばそうなんですが、以前の日記に書いた強いつかみの冒頭から最後まで、逐次に目の前の風景が詳らかに描写される一方で、ふと過去の出来事を振り返ればそのあらゆる出来事の因果が、それにそのまま全体も掴みかねるような古井由吉作品のこの感じがある。

(存在しない)いい歳をした息子が身辺を整理し終えて窓辺で呆けているところをみる冒頭の夢から、知人とその父のあいだの他人から見れば不思議な、とはいえとりたてることもないやりとりが響くような形で自身の生活が進む。そのなかで転機となるのは軽椎間板ヘルニアに伴う手術と入院の日々です。その術後の、頭部を固定されて天井をじっと見続ける期間の描写が6頁くらいあるんですがその描写の凄みですよね。視界に入るものとそこから連想するイメージへの変遷、そして故人への「生前とすこしも変わりがないね」という呼びかけです(古井由吉の対談かなにかで”生前”に関する話題があったと思うんですが、今手元ですぐに出てこなかったのでこれはわたし用のメモです。)

生と死や、自分の精神と世間との境のところを描き出すという意味で古井由吉の他作品と同様のものではあるんですが、今作はタイトルの『楽天記』が、これは字面そのままにのほほんとしたものではなくて、どちらかというと日常のなかの、そしてその日常自体、本来的に災厄にまみれているものであって、そのなかでの病気とその向き合いが描かれていて個人的にわたしの現状と引き合わてウオッとなりながら読んでいました。おもしろかったです。

関屋はかわしたが、病室でおおよそ何の話をしたか、柿原は覚えていた。手の力が弱いので軽い本、目方の軽い文庫本のようなものを読んでいる。普段と格別の読み方をしているわけではないけれど、ただひとつだけ、三日とか十日とか、三月とか三年とか、日数を表す言葉に出会うと、どうかして立ち停まってしまう。それが長いのか短いのか分からなくなる。どれもひとしく、とてつもない長さに感じられることがある。あるいは言葉そのものが、ほんとうのところは半日も百年の弁別もつけられない無力感の、恣意か狂騒に思えてくる。やがては徒労感に捉えられる。そんなとき、念頭のどこかに穴倉のようなものがうかんでいる。人を閉じ込めようとするでもなくて、ただぽっかり口をひらいている。三日という穴倉、半年という穴倉、三年どこぞへ通ったという穴倉。おかしくなって笑い出すまでには、さすがに陰鬱になっている……。『       楽天記』(古井由吉)322頁

2022年11月15日

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