なつもん!

ぼくのなつやすみの系譜にあるゲーム『なつもん!』をクリアしました。夏に買って、最後の1週間まですすめたあとにいつものクリア前になると急に手が離れる癖が発動して、年を明けて真冬にクリアすることになってしまった。良かった、というか、ぼくのなつやすみのつもりでやるとかなり微妙なんですけどゲームとしてはまあ……という感じだった。

わたしがぼくのなつやすみを好きなのって1枚絵のめちゃくちゃきれいな背景のなかを、定点のカメラから捉えた男の子が夏中はしりまわる画面だったんだな……って気づくことができた。それこそ 『のんのんびより』第4話「夏休みがはじまった」はまさにそれと同じことをやっています。

一方で今作はゼルダシリーズのヒット等を踏まえてか、主人公がワールドを縦横無尽に走り、飛び、よじ登ることができるようになっています。これがわたしのぼくなつ観と完全にぶつかってしてしまった……。これって、より世界に触れられるということなのかと思ったら実際にやっているとそういう感じじゃないんだよな。壁をよじ登ったり、空を飛んだり探検をするのってあくまでゲームとしての体験でしかなくて、その「子どもが自由に触れるその瞬間ごとに発生する世界」を体験するものであって、それはあくまでゲームプレイとしての没入感でしかないというか……。ぼくのなつやすみのような「(大人もいる)先 知らない田舎に存在する世界」を夏の間やってきた主人公が探検したり、のんびりしたり、交流をしたりするっていうことによる良さが亡くなってしまっている気がする。

前者が悪いわけではなくて、ティアキンとかはまさにその試行錯誤の体験でヒットをしていると思うんですが、ぼくのなつやすみシリーズって夏休みを体験することをテーマにしていながらその実、その自由さではなくて、逆に頑として存在する知らない世界に潜り込んでいく感覚や、大人たちの世界をのぞきみるようなところが良いと思っているんですよね。

画面は常に定点で、昆虫採集や探索はめちゃくちゃやりにくい(視力を求められる)んですが、それでもぼくのなつやすみが描いてきたのって「子どもはなんでもやれる!」っていう安易な賛美じゃなくて、もっと単調な、同じことの繰り返しのような毎日で、それでいてやっぱりどこにでも顔を出せるような自由さがあるっていう本当に絶妙なラインだったと思うんですよね。それが『なつもん!』はそのあたりがかなりスポイルされていて、主人公になりきって街を探索するだけのゲームだったので小さい頃によく家にあったぼくのなつやすみをやっていた身としてはいまいちな感じが強かった……。

たとえばぼくのなつやすみ2で主人公の知り合ったお姉さんは、夜になると吹き抜けがあって天体観測もできる部屋でクラシックを流しながら本を読むような、それでも年上らしく親しげにかまってくれる素敵なお姉さんで、同じ島の少しだけ年のズレた男の子と恋心未満の交流をしている年相応の部分がある一方で、家を出ていった母に対する屈折した思いを、毎日会話をしているなかで少しずつ話してくれます。

それが夏の終わり頃になって、ふらっとその母が島に帰ってきた日、そのときその母はお姉さんの家には戻らずに主人公を預かっている海の前にあるお宿にとまって、結局お姉さんとは会わずに島を去っていきます。お姉さんがそのことをきいたときに、家の前の道路に座り込んで色々飲み込んだあとに「お腹すいたな~」って普段主人公の前では言わないような子供っぽいことを一言だけ言う温度感がね、めちゃくちゃ良いんですよね。その母は母で、お宿の屋上で「本当はわたしは海の近くに住みたかったのよね……でもそれはこの島じゃなかった。」とだけいってぼんやりしていたりする。

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