(古井由吉)木犀の日

『木犀の日』を読み始めて、いま「夜はいま」を読んだところです。20頁ほどの短編で、半分くらいまで何がなんやら全然飲み込めなかった。(怖いものが苦手なのでホラー映画を本当に中学の行事以来一切みておらず、かなりイメージで書いて申し訳ないですが……、)ホラー映画だとかのあの映像だけでは読み取れない脈絡のなさ、ただ登場人物の中ではひとつの筋が流れているような、ああいうものをむりやり文章に落とし込んだような、そういう印象だったんですが、後半に入って主人公の退院が近づくにつれて読み手の頭にもわずかな筋が見えてくる、よく古井由吉作品に出てくる言葉、恣意が、主人公の感慨がすごく切実で、一方で些細で当たり前のことのように描かれているのがかなり刺さってしまう。1回読んだだけだと全然頭に入っていないのでまた何度か読み直します……。

    叫んで叫んで、叫びまくって、何ひとつ叫ばなかった。叫ばれて叫ばれて、耳の覆えぬことに悶えに悶え極まって、何ひとつ聞かなかった。そのはてに、物音のこれほどくっきりと立つ、澄明さの中にいる。聾唖を降された。あらたに降された、まっさらな聾唖がこの正気の、正体なのかもしれない。その中で、人との言葉のやりとりが、いちいちしっくりと適う。刻々と身をひそめた夜も、明けた覚えはない。夜は明けそうにもない、と白昼の中でまだ堪えている。嵐もやみそうにもない、と静かさの中でまだ待っている。何度でも絶望する。あまりにも長閑だ、ともう一つ傾きかかる切迫の中でつぶやく。鳥が囀っている。(105~106頁)

(追記)

「眉雨」があまりにも読めなくて、それで時間が進まなかったのもあります。人称がわからない、だれが(誰と)いつ話しているのか、考えているのか、みているのかもわからない、いくつもの時間が重なっているようで、そのいずれもが(時系列で一部進んでいるものの)静止して感じられる。

あるいは、すでに為された、すでに起こった。 過去が未来へ押し出そうとする。そして何事もない、何事のあった覚えもない。ただ現在が逼迫する。 逆もあるだろう。現在をいやが上にも逼迫させることによって、過去を招き寄せる。なかった過去まで寄せて、濃い覚えに煮つめる。そして未来へ繋げる。未来を繋ぐ。一寸先も知れぬ未来を、過去の熟知に融合させようとする。吉にしても凶にしても、覚えがなくてはならない。熟知の熱狂が未来をつつみこむまで、太鼓をうちつづけさせる。雨の降り出したのは、もうすぐ手前の兆しだ。(119頁)

以下は似た話題が過去の対談にあったので自分用のメモです。

例えば昼下りから夕方までの時間を書く時、これは小説の場合、その間に出来事がなけりゃいけない。外からのものでも内部のものでも出来事があってこそ、それに沿って書いていける。でも出来事のない、無事の時間ね、その無事の時間を掴んでみたい気持ちがあるんです。無事の時間を掴むと、異なった時間がうらはらに現れ出るんですね。(中略)ぼくらが時間を生きたと感覚するのは何か事があるときなんですね。事がないと死んでるのね、時間が。それではしかしちょっと合わないなと思ってね、事がない時の方が多いんだもん。事がない時間というのをないがしろにしすぎてると思うのね。(『打ち震えていく時間』)

(追記)

『木犀の日』(古井由吉)を読み終わった。前にも日記に書いた「夜はいま」「背中ばかりが暮れ残る」が特によかった。巻末の年表に”三十歳 この夏から手を染めた競馬のほうは長く続くことになった。””三十一歳 初めて医者から、老化をほのめかされた。”とあった。

2021年9月6日

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