『鏡』をみました。先日に続いてタルコフスキーの作品です。完全に睡眠を経た今夜みるしかないでしょっていう感覚があってみにきました。よかった……。
私の夢に現われる母。それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。うっそうと茂る立木に囲まれた家の中で、母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。あれは1935年田舎の干し草置場で火事があった日のこと。その年から父は家からいなくなった…
私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。
両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。
妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。そして、哀れだった母のこと。大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行った…。
母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる… アンドレイ・タルコフスキー映画祭HP
この監督の『ノスタルジア』はまだみていなくて、今月のレストア版上映をみる予定ですが、今日『鏡』をみながらおもったのはこれがノスタルジアじゃんって気持ちでした。母と元妻を重ねて、最後は自分の内面、過去の思いを映像に残していくのは自己本位的といえばそのとおりですが、感傷ってそういうものだよなと思う。ゆるくとられた間合い、水、交錯する時系列に詩の朗詠。自分の内面をさぐっていくなかでこんな映像になるの、その手法としてなんというか大正解をお出しされた感じがある。
事前情報なしでみたので、場面ごとにこれはどの時代だ……?って少し混乱しながらみていたところもある。常に姿の映らない主人公。一方で主人公の子供時代の場面における母親と、成人後の場面における妻が同じ俳優で、また前者の子供時代の主人公と、後者の主人公の子どもも同じ俳優が演じることでパッと場面が交差するとまずはどちらの時代をみているのかわからなくなることがある。名前や出来事、周りに出てくる人なんかで判断はできるんですが、その映像の合間に挿入される主人公の朗詠やスペイン戦争や世界大戦のモンタージュ映像。
冒頭の母が煙草をすいながら草原の先を眺めている場面、男が草原を立ち去る場面の風や、終盤の木立越しに撮られた母子の姿があまりに良くて、視聴後の感覚はすごく、何か良いものをみたなっていう気持ちになる。タルコフスキーの自伝的作品とのことですが、一人の人生をこうやって映像化するのってやっぱり反則(強すぎる)では?って思った。よかったです。
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