(町田康)残響 中原中也の詩によせる言葉/そこ、溝あんで

『残響 中原中也の詩によせる言葉』(町田康)を読み終わりました。先日の町田康の講演に行く際に寄った古本屋でたまたまみかけたものです。わたしは詩を読むことができなくて、このタイミングしかないと思ってよみはじめたところがあります。

本作は中原中也の作品の解説ではなくて、中原中也の詩に、町田康の解説というよりも詩、というかエッセイと言うか文章が添えられているものです。中也の詩のキーワードみたいなものやイメージまでは感じ取れるので、シンプルにあっ中也の詩ってこういうことだったんだって気づくところもあるし、町田康の文章単体でめちゃくちゃ良いのもたくさんあります。「倦怠者の持つ意思」(リンク先青空文庫)に添えられたものはこう。

 部屋で思索をしていたらピアノ千台を崖から一斉に落としたような音が鳴り響いた。なにごとですか、騒々しい。と、嫌な気持ちで立ち上がって、周囲を見渡し、落下したのは私と私をとりまく一切であることがわかった。そこで、あの人に電話をかけて「どういうことか」と問うた。あのひとはへらへら笑って「意味なし」と言って電話を切った。
そんなことで地に落ちてしまったストレスと近所のコンビニとかも一緒に落ちてしまったストレスで口内炎になってしまった。これを治すために、事物の本質を見極めてみた。そうすると、一切が苦しみ始めた。そこであの人に電話をかけて、「一切が苦しんでいるが大丈夫なのか」と問うたところ、あの人は、「大丈夫や」と言って予め免れた自転車に乗ってどこかへいってしまった。
そしたら。私の前に、色のある広さ、が広がる。
私は、その乗り物が実は私であったことを知る。
知ったうえで、もとの部屋にだらしなく座り、ぬるいビールを飲んでテレビを見た。『残響 中原中也の詩によせる言葉』(町田康)148頁

ちょうど今日届いていた『新潮 2010年 05月号』の付属CD『「そこ、溝あんで」詩集朗読』(町田康)を聴きながら歩きます。「そこ、溝あんで」ってまんま「Minding the Gap」じゃんって、駅のホームの隙間であり、邦題『行き止まりの世界に生まれて』じゃん!って昨日の日記で思ったこととのシンクロニシティに笑ってしまった。

雨がぱらぱらしています。誰も傘をさしていないのでいまふりだしたところみたい。歩きながら朗読を流していると映画のモノローグを聞いている気分になります。そしてこの「そこ、溝あんで」は詩の朗読なんですが、訥々と読んでいる一方で効果音として鳥の鳴き声や引き戸を開ける音や、あるいは声を左右に振っていたりパーカッションのリズムが入っていたりと加工がそれなりに入っています。これが暗い夜道で聴いていると音に集中できて、かなり具合が良いです。

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歩きながら見たマンションの反射光がきれいでした。朗読を歩きながら聴いていて困るのは、途中でコンビニに寄って再生を止めたところで、再開してもなんのこっちゃわからなくなるところにある。曲を聴きながら歌詞を追いかけている感覚に近いので今の単語って同音異義語あるけどそのうちどの単語なのか、あるいはダブルミーニングなのかどうなんだろうとか考えることになります。とはいえ、これはあとで活字(新潮に活字でも掲載されています)で読んでもダブルミーニングはついてくるのでそういうものではありますが、より掴みどころのなさはある気がする。

誌の朗読って文字を目で追いながら活字を読むことをイメージしていたけどちょっと違うっぽい。というか本来的に詩と歌(曲)って同じだったりする?ってところにいまさらきています(バカ)。全部の文字をひとつひとつ理解することをしないといけないと思っていて、それはそのとおりであるだろうし、音韻も大事で、それも文字を読めばわかるところなんですが、それ以上に耳で聴いてすっと入ってきた部分だけで感じ取るのもありなのかもしれない。それだとうれしいです。帰ってきてから活字で読み返すとこの詩のときはあの辺りを歩いていたなとか、ちょうどコインランドリーにもどって椅子に座ったときに流れていたのはこの詩だって具合に情報量が多くなっています。新潮本誌に”CDを聴いた後に活字版を読むことをお奨めします(編集部)”とあるのもそういうことを意図しているのかもしれない。詩、むずかしいぜ。

2022年12月5日

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