『櫛の火』(古井由吉)を読み進める。そういえば古井由吉の長編作品は初めてかもしれない。いや、短編連作も似たようなものといえばそうなんですが。とにかく陰鬱な、粘っこい男女関係とその周辺を描いているので少し気分にもそういう影響をしている気がしてた。男女関係といっても交際が描かれるというよりは、その関係で起きることのほとんどを夜、食事や床の中での感覚、汗の触感や布団の外から聞こえる音、ぼんやりしてどこかに運ばれていく思考、等々で並べられているので、そう。
(追記)
前の日記にこうやって書いたんですが、終盤、桜の咲いた公園で広部と矢沢がはじめてやりとりをする場面はすごく清明で、これまでの陰々滅々とした展開がすべて開かれる感じがあった。そしてこの開かれる感じというのはここまでの広部と柾子、それに弥須子と結んできた関係から一歩突き放されるような開放感で、そこに至るのは矢沢なんだよな。
会話文が少ない古井由吉作品ですが、この場面は例外的にたくさん声が聞こえるのもそういう印象に繋がってるのかもしれない。
「桜はお嫌いですか」と矢沢がたずねた。
「あまり好きではありません」
「わたしも若い頃から、遠くで咲いているのを見ただけで不安になる性分でしてね。つい去年までそうでした。それが、昨日は、花の真下に半日も坐っていられるんだから。不安までが、落ちてしまいました。不安というものは、こうなってみると、明るいものですよ。花の影みたいに明るいものです」
声そのものが妙に明るかった。喜びのない、しかし揺るぎもない明るさだった。広部は突っかかりたくなった。
「狂うというのは、ご自分で言われるけれど、どういうことです」
「何のことはない。誰にも見られていない、ということと、同じことです」
「柾子という人間が、目の前にいたじゃありませんか」
「人がね、もう人として見えなくなるような、ああ、そこにいるな、まだいるな、とおもむろな驚きしか起こらないような、手がひとりでに伸びていくような、そういうことがあるのです」『櫛の火』(古井由吉)316~317頁
わりと直球の描写ですが、でもこの作品を読んでいる側が本当に気の狂いを感じるのはここに至るまでの広部、柾子、弥須子、それに矢沢それぞれの暮らしに対してであって、それがひとつなぎで作品の雰囲気をつくっていたんですよね。それがこの場面で逆に一気に正気に戻ってしまった感じがある。そしてそれでもなお、このあとに広部はまた柾子のもとに戻ってくる。他作品ほどではないような気もしますがそれでも人と社会の境界の薄い膜の伸び縮みや震えを描く古井作品であるねという感じです。
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