書店員の春は駅前のベンチに座っていた雪子に道を尋ねるふりをして声をかける。春は雪子の顔に見える悲しみを見過ごせずにいた。一方で春は剛の後をつけながら、その様子を確かめる日々を過ごしていた。春にはかつてこどもだった頃、街中で見かけた雪子や剛に声をかけた過去があった。春の行動に気づいていた剛が春の職場に現れることで、また、春自身がふたたび雪子に声をかけたことで、それぞれの関係が動き出す。春は二人と過ごす日々の中で、自分自身が抱えている母親への思い、悲しみの気持ちと向き合っていく。公式サイト
杉田監督作は『春原さんのうた』を2年前にみています。東京に台風が来た日で、コミケがあった日で、大雨のなか映画館をはしごした日だった。
『彼方のうた』でも描かれる人と人の距離感が映画と観客との距離感と同じくらいに感じる。画面のなかにうつるやりとりがその人のすべてではないように、場面が切り替わると観客の知らないやりとりを経た登場人物がまたいる。何かストーリー上重要であることを伝えた場面がすべて映るわけではないので、みているあいだずっと、「この一つ前の場面であったことから想像すると、過去にこういうことがあったんだな……」という漠然とした想像をする。おそらくこういう喪失や、かなしい出来事や、そういうなにかがあったということだけはわかる。その内容はなにもわからない状態。あわせて長回しが多いところもあって、ともすればみていて不安、不安定感ばかりを感じそうなところですが、そうはならないのがうまいところなんだよな。主人公をはじめとする他人への気配りと、同時にそこにある何か飲み込めない固い部分は観客だけではなくて登場人物同士でも互いに気づいていることがみていてわかる。そういう距離感を描くのが『春原さんのうた』と同様にめちゃくちゃよかった。
「ありがとうございます。わたしのことまで」
「いやいや、付き合ってもらってるのは、こっち」
という会話をみて、このお互いが何について感謝をしているのか、映画をみていても断片的な情報から想像するしかできないんですが、それはこの会話をしているお互いもきっとそうなんだよな。それでも思いやることができるっていう、この距離感がすごく丁寧に描かれているのでラストシーンがとても刺さる。何かを後押しするのではなくて「だめだよ」で終えられるのってすごく強い作品なんだよな。余白があるからこそだと思う。
長回しの画面やさりげない会話をみながら、音を聞きながら、情報を読み取ろうとする部分が頭の中ではたらいて、それが自然にみている自分の過去につながるときがある。この風景って小さい頃に似たようなことがあったなとか。主人公が道の途中で立ち止まり、うつむいたまま動かない場面で、みている側も主人公のことを考えながら、それでも情報は足りないから自分の過去を引っ張り出してきてどういう状態なのか、自分はどういう状態だったのかを思い出す。そういうことが何度もあった映画だった。
あとは蛇足ですが、先日の関東旅行で寄った世田谷美術館がロケーション協力としてエンドクレジットに登場していて、全然気づかなかった!ってなったんですが、パンフレット掲載の撮影稿をみたら多くの場面に使われていたみたいでわたしはおでかけのときに何をみていたんだ……?となった。いや、展示室が映っているわけではないんですが、出入り口とかぜんぜん気づかなかったな。
それと映画をみる場面がいくつかあるなかで、ひとつ、セリフにとても聞き覚えのある会話が客席をうつした画面の奥から聞こえてきて最後の最後までそれが何の映画だったか思い出せなかったんですが、エンドロールでみた名前見た瞬間に何で思い出せなかったんだろうってくらい場面全部頭に浮かんできて記憶力のなさを嘆いたところあった。
コメントを残す