違国日記


映画版の『違国日記』をみた。

両親を交通事故で亡くした15歳の朝(早瀬憩)。葬式の席で、親戚たちの心ない言葉が朝を突き刺す。そんな時、槙生(新垣結衣)がまっすぐ言い放った。
「あなたを愛せるかどうかはわからない。でもわたしは決してあなたを踏みにじらない」
槙生は、誰も引き取ろうとしない朝を勢いで引き取ることに。こうしてほぼ初対面のふたりの、少しぎこちない同居生活がはじまった。人見知りで片付けが苦手な槙生の職業は少女小説家。人懐っこく素直な性格の朝にとって、槙生は間違いなく初めて見るタイプの大人だった。対照的なふたりの生活は、当然のことながら戸惑いの連続。それでも、少しずつ確かにふたりの距離は近付いていた。
だがある日、朝は槙生が隠しごとをしていることを知り、それまでの想いがあふれ出て衝突してしまう――。公式サイト

とても好きな漫画作品が原作の映画。もともと全11巻の作品なんですが、そのいくつかのエピソードをぎゅっとして一本の映画にした形になっています。そしてわたしはその過程で抜け落ちてしまった部分をとても大切に思っていたんだなと思った。

それぞれがが社会の壁に向き合う瞬間に感じる理不尽さや無力感、あるいは怒りのような状態にたいして、他者とのやりとりがどうやって救いになることがあるのかを描くのに、どうしても映画では時間が足りなかった可能性がある。尺だけではなくてこれはわたしが人間が苦手な部分なせいかもしれないんですが、本や漫画と違って映画では伝わる温度感(何かは不明です)を意識してか、かなりマイルドに調整をはかったことがどうしてもわたしは飲み込めなかったんだと思う。

具体的には、原作で描かれる槙生と笠町くんの関係のことをわたしはかなり好ましく思っているんですが、そこをよりなんというか、映画版では社会的にしていたというか、端的に言えば結婚につながる恋愛寄りにして、他の登場人物間のアナロジーになるようなところにおいたのがわたしは良くないなと思った。サイン会の場面で、『OK』と書き込む瞬間にわたしはおえっとなったし、わたしの前に座っていた人はそこで席を立ち上がってそのまま劇場に戻ってこなかった。

高校生の登場人物たちそれぞれが感じる困難を青春と結びつけて単純化しないように、ぎりぎりのところを探っている感じはあったんですが、森本さんの描かれ方、体育館(場所を変えたのもあまり納得できていない)での朝とえみりのやりとり等、いずれも映画で生身の人間が演じることによって発生する生々しさ(そんなものがあるのか不明ですが・・・・・・)に蓋をするような、バランス調整のようなものが入っているように感じた。もともと原作が踏み込んでいるその部分は、その不安定さや熱量を、まわりの人物たちとのやりとりが少しずつほぐしていくような、そういうところに良さがあったと思っていたのでかなしい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA