30代も後半を迎えた、あかり、桜子、芙美、純の4人は、なんでも話せる親友同士だと思っていた。純の秘密を知るまでは……。中学生の息子がいる桜子は、多忙な夫を支えながら家庭を守る平凡な暮らしにどこか寂しさを感じていた。編集者である夫をもつ芙美もまた、真に向き合うことのできないうわべだけ良好な夫婦関係に言い知れぬ不安を覚えていた。あかりはバツイチ独身の看護師。できの悪い後輩に手を焼きながら多忙な日々を過ごし、病院で知り合った男性からアプローチを受けるも今は恋愛をする気になれずにいる。
純の現状を思わぬかたちで知った彼女たちの動揺は、いつしか自身の人生をも大きく動かすきっかけとなっていく。つかの間の慰めに4人は有馬温泉へ旅行に出かけ楽しい時を過ごすが、純の秘めた決意を3人は知る由もなかった。やがてくる長い夜に彼女たちは問いかける。
—私は本当になりたかった私なの?公式サイト
とても良かった……。演技経験のないキャストを中心に撮影された5時間17分、まだぜんぜんみていたい。神戸の街と山と海を舞台に4人の女性が描かれるのにこれだけの時間は必要だったと言われるとその通りだと思えるくらい一つ一つの出来事が濃密で、特に何度も映される複数人が集まる食事の場面はどれもすごい。テーブルを囲む瞬間が、いつもその場面に至るものを一旦すべてここで広げるターンとして機能しているんですが、そこで登場人物たちが積み重ねてきた思いを発露する瞬間に至るまでと、その結果が全部地続きなのに劇的に感じてしまう。というかそれを言うと作品全体がそうだった。一つ一つの出来事の積み重ねが必然的にこうなってしまうよなって納得感があるのに感覚としては全部想像を越えてきているような、というと大げさかもしれないんですが、だからこそ上映時間はもっとあってもぜんぜんよかったという気持ちになる。
先日読んだ『他なる映画と 1』(濱口竜介)のなかでこの作品について触れている箇所が(何箇所も)あったので一つ記録に残しておきます。映画の演出についての部分です。カサヴェテスの発言の孫引きになります。
誰でも演技できると本当に思っているよ。どれだけうまく演技できるかは演技者がどれほど自由か、自分の感じることを表に出せるような環境があるかどうかにかかっている。ぼくの演出に対した秘訣があるとは思わない。自分の好きな人たち、興味のある人たちを起用して、俳優としてのではなく人間としての彼らに話すだけだ。(『ジョン・カサヴェテスは語る、二一九頁』
この言葉は私自身、特に『ハッピーアワー』という映画をつくっているときに胸に抱いている言葉でした。演技とは単なるテクニックではなく、その人がそれまで生きてきたことの表現にほかならず、だからこそ誰でも演技ができると、わたしもまた考えています。と言うか、その考え自体をカサヴェテスの映画と彼の発言から受け取った、と言っていいでしょう。ただ、その実現は用意ではない。『他なる映画と 1』、211~212頁
このあと本の中では、カサヴェテスの『ハズバンズ』の歌のコンテストの場面における物語の構造と演出手法が悪い方向に結びついた可能性、暴力的な環境について話を展開しています。そして、その演出上の問題に関する一つの解決の糸口が「聞く」ことだとしている。思い返すとこれがそのまま『ハッピーアワー』のなかで絵が書かれる人間関係の問題、特に破綻した(あるいはしかけている)夫婦関係の描かれ方につながっていた気がする。そういえばこの作品の仮題は先の『ハズバンズ』(夫たち)に対応するような、『ブライズ』(花嫁たち)としていたというのはパンフレットにありました。
コメントを残す