瞳をとじて

映画『別れのまなざし』の撮影中に主演俳優フリオ・アレナスが失踪した。当時、警察は近くの崖に靴が揃えられていたことから投身自殺だと断定するも、結局遺体は上がってこなかった。それから22年、元映画監督でありフリオの親友でもあったミゲルはかつての人気俳優失踪事件の謎を追うTV番組から証言者として出演依頼を受ける。取材協力するミゲルだったが次第にフリオと過ごした青春時代を、そして自らの半生を追想していく。そして番組終了後、一通の思わぬ情報が寄せられた。
「海辺の施設でフリオによく似た男を知っている」—— 公式サイト

劇中映画の1947年と、その劇中映画が撮影された1990年、そして今作の舞台になる2012年。劇中映画の撮影時に失踪した親友は行方不明のまま、その監督であり今作の主人公は映画から離れ、その当時小さな子どもだった親友の娘も50代に。時代もフィルムからデジタルに変わった。そしてふいに見つかった親友は記憶を喪っていた。こういった変化のなかで、それぞれの積み重ねてきた時間のなかに残された映像や記録の端々に、その時間ごとの登場人物たちがいる。逆にいうとものとして残されていない記憶や、その人自身が過ごしていく人生についての映画だった。見えないものが記憶に届くということなんだよな。

この映画では過去の出来事について向き合うことが主題になるのではなくて、過去から今、そしてこれから先につながるものがあることが、美しい画面や、穏やかなやりとりのなかで、静かだけど劇的な形で提示されています。目に見えない時間の流れやその時々の感覚。

終盤に劇中映画(『別れのまなざし』)が上映される場面があります。そのラスト、カメラ越しに客席を見つめる当時の親友とその娘役の瞳、その姿の映されたスクリーンをみている客席の登場人物がいる。そして瞳をとじる。瞳を閉じて、その瞳のなかの、個人の意識のなかで、映像のなかにいた登場人物を演じるこれまでの自分と(おそらく)これからの自分を繋げて思うことっていうのは、その瞬間で映画を締めるのってめちゃくちゃうますぎる。見えない先が始まるところで映画が終わり、劇場が明るくなる。

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