『カメラの前で演じること』(濱口竜介、野原位、高橋知由)を読み終わった。映画『ハッピーアワー』の制作に関する文章とその脚本やサブテキストが収録された本です。インターネットではプレ値がついてたりするけど郊外のジュンク堂にはまだちらほらありました(2025夏時点)。
『ハッピーアワー』の制作において行われたこと、そしてその基になった考え方がまとめられています。それは、突き詰めればレンズに映るすべてを記録してしまうカメラの前に役者が立つとき、どのような(スタッフも含めた)事前の準備を持って撮影に臨むことが求められているかということの模索であり、その実践が具体的に示されている。
ある台詞を、演者はもちろん口にすることができる。しかし、あくまで「普段言わない言葉」としてだ。演者のからだは、とても素直にその言葉が日常的に言い慣れないものであることを告白する。彼女らのからだに深く潜む「言えなさ」を無視してことを進めることは、結局のところ「恥」の強い抵抗を引き起こすことになる。もしそれがカメラの前でなされるなら、カメラはそれを克明に記録する。例えば頬のひきつりや、身振りのぎこちなさ。そして発声の際の喉の詰まりが「恥」の痕跡として、ときに強烈に画面と音響に残るだろう。 『カメラの前で演じること』44頁
しかし、カメラが仮借のない吟味の機械であることを理解してその前に立つとき、究極的に自分に突きつけられるのは「本当に恥ずかしいことは何か」という問いです。もっと踏み込んで言えば、社会の目を想定するのではなく、「自分自身にとって」本当に恥ずかしいことは何かが問われている、ということです。ここで要求されているのは、恥を捨て去ることではないように思えます。自分自身の最も深い恥によって、自分自身を支えること、助けることです。このとき、恥は役柄と自分を切り離すのではなく、最も深い部分で互いを強く繋いでくれるのではないか、という気がします。 『カメラの前で演じること』51頁
一つの目的に対する一貫した、そして一歩一歩進んでいくような取り組みが、本著刊行の3年後、2018年10月の講座「映画の、演技と演出について」(『他なる映画と 1』に収録)にもつながっています。そしてこれらが後になってそれぞれの本を読んだ、そして映画をみたわたしの感覚としても大変するすると入ってくるようなものになっており、すごい。もちろん実際の場ではあらゆる試行錯誤が行われていて、結果として文章にまとめたときにきれいな道筋になっているものだとは思うんですが、それにしても読みやすさ、それに映画をみたあとの感覚との足並みが揃いすぎていて、逆にわたしがすべてを鵜呑みにしすぎなのでは……?って心配になるくらいなんだよな。だからもっとわたしが映画をみて、本を読んでから読み返したらわかることが多く書かれている気がする。
その日その時その場所で、たまたまそうなった。テキストが演者のポテンシャルを開いてしまった。もしくは、演者がテキストのポテンシャルを。偶然。それをカメラやマイクが捉えた。だからこそそれを「かけがえのない偶然」として我々は見ている、ということです。(略)つまり、そこで起きていることは、基本的には互いに弱め合うはずのフィクション(テキスト)とドキュメンタリー(現実のからだ)の、ほとんどありえないような一致・両立なのです。だからこそそれは、現実がフィクションを破壊せんとしてもたらす数多のハプニングやノイズとは異なる、「正確な」(と呼びたくなる)偶然として感じられるのです。(略)
テキストという準備があることがむしろ、然るべき偶然(の連鎖)の条件となります。テキストがあるから同じことを繰り返せる、同じことを繰り返せる中で、役者の安心と集中状態が同時に作られていく。この時にのみ起こる偶然があるのです。 『他なる映画と 1』190~191頁
にもかかわらず、役者がカメラの最良のパートナーである所以は、彼ら・彼女らが「繰り返し」てくれる存在だからです。ただ、役者は演出家のために繰り返しているわけではない、ということは決して忘れてはならない。自分自身にとって真に重要な何かを見出すために彼・彼女は繰り返しカメラの前に立ってくれているに過ぎません。その破綻を避けるためにも、NOを互いに言い合える役者と演出家の素直な関係がまずは必要になります。そのうえで、両者は「どうやったら共にYESといえるのか」と問うことになります。この演出家としての問いは、明らかにそのまま他者と生きる上での問いでもあります。「私が私のまま、あなたがあなたのまま、どうやったら一緒にいられるのか」。逆説的ですが、そのために「私とあなたは、どうやって共に変わっていけるのか」。この問いは、どう人を愛するかという問いと非常に良く似ているように私には思われます。 『他なる映画と 1』220頁
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