(西 成彦)バイリンガルな夢と憂鬱

『バイリンガルな夢と憂鬱』(西 成彦)を読み終わった。複数言語を使用する状況のなかにはそれを余儀なくされている場合があること、そしてそのとき、作品のなかでその多言語世界がどのように書き込まれているのかを主にアイヌ語、台湾諸語、朝鮮語と日本語の環境から紐解いています。

ソウルで受けた衝撃を描いたパートの副題を「押し付けられたエクソフォニー」とした多和田の言う「押し付けられた」とは、「バイリンガル」であることがその土地において「強要された」ものであったという、植民地特有の言語事情をふまえたものである。朴婉緒たちの世代は、「外国語文学」を読むにも日本語を介するしかさしあたっての手立てがなかった。 『バイリンガルな夢と憂鬱』152頁

「二世」がみずからのバイリンガル性をおし殺しつつ日本語で筆を執るのは、「一世」の世代が「二世」の朝鮮語能力の欠如を慮って、いつのまにか「下手な」なりに日本語で語りかけてきてしまっているからだ。そんな「一世」を描くにあたって、日本語以外に何が使えるというのか、という現場主義的な選択である。 『バイリンガルな夢と憂鬱』193頁

日帝時代が、朝鮮人に日本語を強要する時代であったとすれば、解放後の朝鮮は、バイリンガルな朝鮮人に日本語能力の一刻も早い圧殺を命じる反動の時代だった。かつて内地への渡航者を続々と排出し、そのぶん、南承之も含めて引揚者の数も桁違いに多かった済州島は、まさに反転して、バイリンガル性を抑圧する環境として、きわめつけの地獄だったと言えるかもしれない。 『バイリンガルな夢と憂鬱』134頁

朝鮮語に関する部分だけでも当然にその年代や土地によって環境は全く異なっている。それらを読み解きながら一から多へと「足し算」の環境を推し進めた植民地主義が、その後、それぞれの文学作品のなかでも描かれるような「割り算」の環境、そして言語自体が消えていく「引き算」へ向かってしまう移行の過程を捉えようとする本です。この本のなかに作品全体が収録されていた台湾の作品「隣居」(呂赫若)もおもしろかった。

そもそも『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』に続いてわたしがこの本を棚から手に取ったのは、今年台湾への旅行に行こうかな、、、の気持ちのなかで日本語が通じやすいことをインターネットの旅行記で読んで少し気になったからですが、これら続けて2冊の本を読んで旅行する感じではなくなってきた感じもややあって、あるね。

2026年6月7日

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