今は『槿』(古井由吉)を読んでいます。まだ冒頭ですが、古井由吉の触れる離人感についての部分はどうしても前のめりに読んでしまう。好きなので。それはそれとして、作中に
「木槿と、朝顔とは、同類だろうか」
「木槿とは木です。朝顔は、草です」 『槿』23頁
という会話があった。作品名は『槿』(あさがお)なんですが、さっき入力したとき”あさがお”で変換できなくて混乱した。どうもインターネットにある辞書サイトをみていると、「槿 」の読みを「あさがお」としている用法は古井由吉のこの作品しかないっぽい。
(5/5 追記)
年々歳々、外にたいして物言いが分別ついてくるにつれ、自身にたいしてはますます遠慮なく、沈黙にふける傾きがある。いまさら孤独感の充足でもなく、鬱々ともしていない。たとえばひとりで飯を喰う、厠の内に屈む、あれと同じむつむつとしたものが、何かのはずみで沈黙をさらに底なしの感じで深めかける。
どうかして昨夜の顔が、誰とはわかっていても、顔として浮かべられない。それでいて一向に焦りもしない。
自身についても、昨日の今日、という連続感がしばしばかすれる。昨日と今日とのあいだに、やや遠い記憶の靄がかかり、払えば消えるがまたまつわりついてくる。いま現在が、ちょっとした想念やら立居の端で、記憶の色を帯びかける。 『槿』133~134頁
今日も『槿』を読み進めた。古井由吉の長編というとあまり触れたことがないんですが、手を付ける前に想像していた以上に読みやすい。いや、これは短編のあの時間や空間のほどける感じが抑えられていて、物語として読みやすいというレベルの話ですが、まだ全体の1/4ほどなのでなんともというか、面白いと思う(無の感想を書くな)。
(5/24追記)
『槿』(古井由吉)、ずっとずるずる読んでたけど最終盤すごくて一気に読みおわった。
コメントを残す