『愛の完成/静かなヴェロニカの誘惑』(ムージル (著), 古井 由吉 (翻訳))を読んでいます。先日までに読んでいた、ワイマール文化に関する本にも著者が登場していました。第一次世界大戦前後の作家です。
冒頭の夫婦の会話の場面がめちゃくちゃ良い。単に夕暮れの部屋で紅茶を注ぎながら話をする場面なのに情景というか心象風景というか、その混ざりあった沈殿の瞬間が数ページにわたって描写されます。これが『愛の完成』の冒頭です。ここから妻が一人で遠出をし、男と出会い、関係を持つというお話。
自分の内には、行為には表されず、また行為からは何ひとつこうむらぬものがある。言葉の領分よりも深いところにあるがゆえに、おのれを弁明するすべも知らぬなにか、それを理解するためには、まずそれを愛さなくてはならない、それがおのれを愛するように、それを愛さなくてはならないなにか、ただ夫とだけ分かち合っているそんな何かが自分のうちにあることを、彼女はこうして沈黙を守っていると、いよいよ強く感じた。それは内なる合一だった。
『愛の完成』66~67頁
この部分は、端的に言えば姦淫に入るところなんですが、それはそれとしてこの「夫とだけ分かち合っている」という部分を除くと、これも先日改めて読み返していた『違国日記』のモノローグを思い出した。
孤独はなぜ彼女に
するように わたしには優しくないのだろうと
わたしは長らく
思っていたが孤独に愛された人の
ありようを想像
したことがなかったその人は
孤独を愛し返す
ほかないの
だろうか?でももし
愛し方を
間違えたら?『違国日記』9巻 87~89頁
(追記8/17)
『愛の完成,静かなヴェロニカの誘惑』(ムージル (著), 古井 由吉 (翻訳))を読み終わった。めちゃくちゃ時間がかかった……。
まだ大学教員をやっていた頃の古井由吉の翻訳作品(に後年手が入ったもの)です。愛(あるいは神)に向けて登場人物の思考が展開されていくなかで少しまえに書かれていたことと反対の方向に思考が振れることが多くあって、その緩慢な広がりというか揺れ動きが丁寧に何度も繰り返される。時間経過は曖昧で、今自分がどこまで読んでいるのか、その思考に追いついていたのかどうかわからなくなるというのが最初の感想です。
何度か読み返しているうちにその長い文章に登場するいくつかの単語が後の展開につながる楔になっている部分ががなんとなく把握できてくるので、そういう部分に付箋を貼っていたら結局付箋だらけになってしまった。そしてあとからその部分を読み返すと、その前後だけを読むのではそれが何を意図した付箋だったのかわからないくらい、周りの文章に埋没したように感じる。そういう、単体ではどうということのない文章がひたすらぐるぐると周りながら、愛(あるいは神)に向かっていく作品です。
「愛の完成」の冒頭部、クラウディネと夫が部屋でいつもの話をはじめる直前の描写です。この段階で愛って完成しているのでは!?ってくらいの書き込みなんですが、ここが今作の開始地点なんだよな。(長い引用)
たしかに、それは誰の目にも見えるようなひとつの角度だった。しかしそれとは違った、ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じ取れるのは、この二人だけだった。彼らにはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかいのようにあいだに緊張して、二人をそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらずほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。それは互いのみぞおちあたりに支点をもち、彼らはそこに圧迫を感じた。その力を受けて、彼らは目もふらず眉ひとつ動かさぬまま、椅子の背にそってぎこちなく押し上げられた。それでも、その力が身にあたるところに、彼らはこまやかな動揺を、いかにもかろやかなものを感じるのだった、まるで二人の心臓がそれぞれ小さな蝶の群れとなってひらひらとまじりあうかのように……。
ほとんど現実のものとは思えぬほどかすかではあるが、いかにもたしかなこの感じを、かすかにふるえる軸のように拠りどころにして、さらにまた、この軸の支点をなす二人を拠りどころにして、部屋全体は立っていた。あたりの物たちは息をひそめ、窓にうつる光は黄金色のレースへと凝固した。あらゆるものが沈黙し、何かを待ち、そして二人のために存在した。ひとすじのはてしなく輝き流れる糸のように世界を渡っていく時間は、いましもこの部屋のまん中をつらぬいて流れ、この二人の胸をつらぬいて流れ、いきなり静止して、硬くなるように見えた、硬くなり、静かになり、きらきらと輝くように……物たちは互いにいくらかみを寄せあった。それはあの静止と、それにつづくひそやかな沈澱の瞬間だった。ちょうど飽和液のなかでいきなり面が整い、結晶がつくられるときの……。二人のまわりに結晶が生じた。その中心軸をつらぬき、そして息をひそめ、もりあがり、まわりに凝固していく結晶をとおして、二人は幾千もの鏡面をとおすようにして見つめあい、いま初めてお互いを見出したかのように、ふたたび見つめあった……。「愛の完成」9頁
この夫への愛を、遠くに出かけたクラウディネがいっそう際限のないものとして感じ取るために知らない男と関係を持つお話。話の筋はめちゃくちゃ明快で、書かれている心情もそれほど違和感なく伝わってくるのに文章の展開がとにかく迂遠というか、砂でできたレンガを積み重ねていくようで腰を据えて読まないと全体をとりこぼしてしまう。
そして後半に収録されている「静かなヴェロニカの誘惑」もまた手に負えないんだよな。ヴェロニカと恋人のヨハネス、それにもう一人の男、デメーターが登場する作品。ヨハネスが旅にでる日に(きっとヨハネスは自殺するだろうと確信しつつ)別れてから、一人になったヴェロニカの過ごした一夜の描写がすごい。世界に対する開放感と贖罪と、肯定感と諸々が全部溢れ出して、そのまま眠らずに夜が明ける。
彼女はじっと坐って、思いをもてあそんでいた。ひとつの世界がある。脇へそれた何かが、もうひとつの世界が、あるいはたったひとつの哀しみが……それはたとえて言うなら病熱と無想とによって彩色された壁、その間では健康な人間たちの言葉は響かず、意味もなく地に落ちてしまう。またたとえて言うなら、その上を歩むには彼らの立ち居振舞いは重すぎる絨毯。それはごく薄くて、よく響く世界、その中を彼女は彼とともに歩み、そこでは彼女が何をおこなおうと、それに静けさが伴い、彼女が何を思おうと、それは入り組んだ通路を行くささやきのように、どこまでも走ってやまない……。「静かなヴェロニカの誘惑」166頁
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